ブログ「いらけれ」

ということで、アンケートです。

答えてくれてありがとう。

20時から始めたwindowsアップデートが、0時を越えて、1時になってやっと終わったとき、もう無理だと思った。かかっても2時間だと予想していた、その見通しの甘さは責められてもしょうがない。とはいえ、始めてしまったものはしょうがない。日記を書くつもりだった。日記に書くことはたくさんあった。日記を書き終えて、明日に備えるつもりだった。もし早く書けて、早く眠ることができたら、行きたい場所があった。でも、パソコンが使えなかったから、借りたままの本を読んだり、2017年を最後に起動していなかった『グランド・セフト・オートV』をプレイしたりしていた。久しぶりすぎて操作が分からず、手りゅう弾をその場に捨てたりしたけれど、結構楽しかった。15時間しかやってなかったようなので、もったいないので、これからちょいちょいやっていこう。って、そんなことはどうでもよくて、そのせいで書けなかったから、午前2時になってしまった。眠らなくていい体ならば、眠らないだろう。しかし僕は、眠らないと使い物にならないタイプなのだ。そうだ、書くことが負担になっているのだ。起きることができたら行きたかった場所は、諦めることにした。

金はないが、仕事をやめるつもりだ。心が腐るよりも、よっぽど良いから。本当は、もっと早くやめなければならなかった。ストレスのせいか、仰向けに横たわると、天井が左に回転して見えるようになってしまった。やめて、どうするかは決めていない。今は、とにかく楽しいことをしようと思っていて、そんなこんなで哲学カフェづいている。新しい会にも参加させてもらった。思うところはいろいろあって、それは、その日の議題についてだけではない。「哲学カフェ」それ自体や、あるいは、そこにいる自分や誰かについてもだ。そのことをまだ書いていないというのに、明日という名の今日は、ナツノカモ低温劇団「ていおん!!!」を見にいく予定で、チケットも取ってある。そっちの感想だって、何かしらあるだろう。

もう3時だし、眠いから寝るけど、それで冒頭のアンケートにつながるってわけだ。最初は、ツイッターの投票でやろうかとも思ったけど、投票数が見えるのが恥ずかしいからやめた。Googleフォームのアンケートって、答えたことはあっても、作ったのは初めてだ。意外と使いやすいし、機能も多いので、面白いことができそう。それもまあ、続くことになったらの話だけど。"かまってちゃん"みたいなことをしてしまったのは、読みたい人がいないなら、いいかなって思ったからだ。今も昔も、つまらないしくだらないのかもしれない。それでもいいなら、続けてくれって人がいれば……ね。いなければ……ね。

ブログ「いらけれ」

一週間前のことって、どうやって思い出すのだろう。確か、結構な雨が降っていた気がする。梅雨だからだろうか。うっとおしいなと思った。

それにしても、写真が下手すぎやしないだろうか。スマホを安物に変えたとはいえ、程度というものがあるだろう。別に、きれいな写真を撮りたいわけではないし、どうでもいい。

日記とは、全然自由なものではなく、そこには様々なことがあったし色んな人がいたけれど書けない。それらはすべて、いつか僕に書かれるためにあり、まったく別の形に変奏されるためにあるのだ。

友人と行った、この日の公演自体はとても面白く、今年一番笑った。見に行くといつも、「そこに人がいる」というのは思いの外パワーがあって、画面越しに見るのとは全然違うんだな、と思う自分がいる。しかし、生中継との本質的な差異は分からないのだ、なぜなら、その回を客席で見るということは、まったくプレーンな状態で、映像で見ることはできないということだから。

家見舞はスタンダードナンバーなんだなあ。ラジオの番組とかでも、色んな人がやっているのをよく聞く。家に帰って、その日のTBSラジオの朝番組をチェックした。客席にいた人は、みんなそうだろう。ただただ、ラジオで聞いたマジックを、そのまま話して面白いのはすごいなと思った。

王道の野ざらし。技術に感心する。年齢が近いのだ。尊敬する。

怒涛のまくらが20分弱。もちろん、現在進行形で見ていたときには思わないことだが、まくらを話していた人が、落語を演じているというより、落語の中の人が、まくらを話していたというような印象すら、終わって振り返ったときには抱いた。

衝撃。これに似た感覚が……と思い出していたのだが、昔昔亭桃太郎をシブラクで初めて見たときの、あの、笑いという名の角棒で殴られるような感じだ。構成とかストーリーとか、めちゃくちゃやっている一方で、実は、相当に細かい操作(後の素っ頓狂なセリフを観客が受け入れられるように、それより若干弱めで似たような語感のセリフを先に言っておく、など)をしていると思うのだが、高座の間は、そんなこと気が付かないぐらいに、ただただ笑っていた。

その後、久米川まで戻って飲み。メキシコ料理屋で。チョコレートソースがかかった肉とか、サボテンのサラダとか、初めて食べるものばかりだったけど、来るもの来るものうまくてビビる。テカテビールもおいしかったし、また行きたい。とにかく笑って、おいしいものを食べて、幸福な一日だった。

ブログ「いらけれ」

僕が、あの輝かしい瞬間の夢から覚めたとき、ここのところずっと「そろそろやりたいなあ」と考えていたサイトリニューアルやネット上のキャラクター変更について、やっと決心がついた。そんなことしたってアクセスが増えるわけないし、しょうがないのも分かっていて、でも、工夫をしてみること、取り組んでみることは大切だからさ。インターネットによって、数多くの名作が無料で読めるようになった時代に、この日記が、誰にも読まれるべきものではないことを知りながらも、それでももう少し、読まれてみたい、読まれたら嬉しいと思っている自分がいて、今はローソンにチケットを取りに行かなけれならなかったりと忙しいから、6月中に何とかしよう。

「ゴエツドウシュウ」に行ってからというもの、ユーチューブでよくAマッソの動画を見ているのだが、村上とロレックスなのは犬山紙子だと思って、それでツイッターを検索したら、2018年に同じことを言っているのは1人だけだった。

誰かが良いと言っているから良いというのは違うのだと、自分が良いと思うかどうかだろうと思って、でも、自分が何かを良いと思うその基準は、子どもの頃に誰かが、または皆が良いと言っていたから良いと思うようになったり、あるいは天邪鬼に、誰も良いと言わないから良いと思うようになったりしたことによって作られたもので、だから全然、何一つ自由じゃないんだ。

耳かきの害が盛んに話題となっていたとき、たまたま読んだ記事で、「イヤホンをつけっぱなしにするのもよくない」と書いてあったから、その日に「オープン型オンイヤーヘッドホン」というのを買った(このタイプのものは、中学生の頃にほんの少し使っていた時期があったが、それ以来だ)。以前から耳の中が痒いと思うことが多くて、もしかしたら、起きている時間のほとんどで、カナル型イヤホンをしていることが原因かもしれないと思ったからだ。音漏れ的に、外で使うのは厳しいかもしれないが、家で動画を見る時は、これで音を聞くようにしたら、耳が痒いと思うことが少なくなった気がする。

散歩中に、閃くように思ったのは、僕は、自分が不当な扱いを受けることは当然のように嫌だけど、自分に有利な不平等も居心地が悪くて苦手なのだということ。右手には「きつねっぱら公園」というのがあって、昔は、犬は犬畜生なんて言われていて、狐は神様のように信仰されていたのに、今はこうだから、時代って変わるんだなって思った。

ブログ「いらけれ」

今日の体育は、バスケットボールだった。子どもの頃から、キャッチボールやPK戦で父と遊んでいた僕は、太っていたからスピードもなかったし、息はすぐに切れたけれども、球技は得意な方だった。ボールを上手に投げられるのは、結構特別なスキルであるということを、小学生の僕は理解していなかった。自分にできる程度のことは、誰にでもできると思っていたのだ。だから、野球の授業でセカンドを守っていたときに打球が頭を越えて、ライトの岩崎君がそれを追いかけ拾った後に、中継に入った僕に向けて、ぎくしゃくとしたフォームで投げたボールがあらぬ方向に飛び、地面に叩き付けられたとき、「何してんだよ」という言葉と、冷たい視線を投げ掛けてしまった。僕はこの後、多くの人にとっては簡単な、毎日中学校に行くということすらできなくなるというのに。

球技が得意なことと、ボールが回ってくることは違った。運動ができると認識されている人たちの間を、あの大きくて硬い、ぶつぶつとして、ボンッと跳ねるボールは行き来していた。なのに試合終了寸前、それは僕の両手の間にあった。しかし、どういう経緯でそうなったのか、まるで覚えていない。僕は、なるべく周囲に迷惑をかけないこと、下手なプレーをしていじめの対象にならないことだけに集中し、頭を使っていたからだ。パスかこぼれ球か、いずれにせよ、とにかくこうなってしまった。何とかするしかなかった。探せばパスコースはあったはずだが、無かったのは時間で、「打て!」という大きな声が聞こえた。これでシュートしなかったら、僕はどうなるか知っていた。ディフェンスをする同級生が目の前にいた。彼の手の向こうに、ゴールがあるはずだった。見えないそこに向かって、両手で飛ばしたボールは、大きな弧を描いてストンッと、赤い丸の中に吸い込まれた。それは、チームを救う値千金のゴールとなった。正直言って自信はあったし、いつも「僕にパスしてくれれば」と思っていた。でも、実際に決めたことはなかったから、奇跡のような現実にうっとりしていたけれど、それを悟られてはいけないキャラクターだったから、試合終了後に僕の所へ来て、「すごかった」とか「やったな」という皆に、それがいかに偶然の出来事で、自分でも驚いているのかということを、一生懸命説明した。

あの、僕にとっては特別な瞬間。でも、他の人にとっては特別ではない出来事。そこにいた誰もが、忘れてしまったことだろう。しかし、僕だけは忘れることができない。そのことを表すように、酒を飲んだ夕食の後にテレビを見ながらうとうとして、ついには1時間ほど眠ってしまった僕は、あの日を夢に見て、それはスローモーションで、美しいゴールだった。