ブログ「いらけれ」

日差しに、少し穏やかな気持ちになったから、キーボードの前にいる。家の窓から、商店街の電柱に取り付けられた、色とりどりの、きらきらの飾りが揺れているのが見えて、風が吹いているのだと分かる。外を歩いたら、とても心地よいだろう。

「6月25日0時に公開された日記」なのに、今は午後1時だ。すでに見に来てくれた人がいて、とても申し訳ない。苦い気持ちが胸の奥からせり上がってくる。愛想を尽かされるなら、しょうがない。それはいいけど、少しでも気にかけてくれるような、とても奇特な人に対して、悪いことをしてしまった。悪いことはしたくなかった。

過剰さ、なんだ。読みに来た人を、気にしていると書いてしまう過剰な心配性。ものを書いている人のほとんどが、読む人を気にして書いているだろうから、それだけで過剰だ、というわけではない。気にして、想定して、想像して、誘導して、そしてそれを悟らせないようにすればいい、上手くやるというのはそういうことで、お金儲けをしたければ、尚更そうすればいい。

身体のなかに余っているものがなければ、こんな文章は書かない。考えることを、思うことをやめてしまえば、どれほど楽だろうか。最適化しきれない何かが残っているから、音楽を聞く。ゲームで遊ぶ。お笑いライブを見に行く。哲学カフェに行った時、ここにいる人々は、過剰さの総量が大きいのだなと強く思った。絶えず最適化を求められる社会について、最適化する方法ではなくて、そもそもこの社会に自分が最適化して良いのかどうか、そのように戸惑うような人でなければ、話し合おうなんて思わないのではないか。

表れ方は人それぞれだとしても、誰もが過剰であることからは逃れられない。筋トレをするのも、泥酔をするのも、恋をするのも自由だ。ただし、自分の過剰さによる力を、他者の支配に差し向けてしまった時に人間は、とても残酷になるということを、絶対に忘れてほしくないと思う、あなたには。

願い事が叶わなかった子どもはそれでも、次の年の7月7日の直前に、同じように、願い事を書いた短冊を笹の葉につるした。叶わないとしても願うことには意味があり、まったく無駄ではないと分かっている、とても聡い子だったから?風に揺れる電柱の飾りが、西武新宿駅のホームに上がるためにエスカレーターに乗って、ペペの中を抜けるときに見た笹飾りを思い出させたから、この文章はあって、しかし6月23日で七夕気分って早くね?2週間前よ?ハロウィンもクリスマスもそう、気分の醸成が、どんどん前倒しされているよね?……などと思った僕が、なぜその日新宿にいたのか、明日はそれについて書くかもしれないし、書かないかもしれない。