昼間で、家でしょうゆヌードルをずるずる啜りながら、先の日曜日のことを思い出していたのだが、まったく上手く書ける気がしなくて、なんだか落ち込む。
昨日は、一昨日に行けなかったイオンに行って、来店ポイントをためて、外に出たら信号が赤で、靴を見に行きたかった西友へまっすぐ向かわずに、どこか行こうかなと、そこに留まらずにふらふらと歩き出して、暑いからいいやと思って、結局イオンに戻って、さっきは行かなかった二階へ、ぶらぶらと服を見て回っていたら、ベルトが300円で売っていて、思わず2本手に取ってしまって、この袋を持っていると西友に入りづらいなと思った、というようなこと。置き場所がないからと、部屋の隅に雑に置いていたカバンを、100円ショップでS字フックを買ってラックにかけるようにしたら、生活の質が上がってとても気分が良くなった、というようなこと。アフタートークの最中に、大きなサイレンの音が聞こえていたが、終演後に劇場を出て、少し歩いたところには、赤色灯をつけたパトカーが3台停まっていて、何か事件があったのかなと思ったが、そのまま通り過ぎた、というようなこと。そんな感じ、でも、全部違う。
ナツノカモ低温劇団「ていおん!!!」を見に行って、とても面白かったから何か書きたいけれど、どうも糸口が見つからない。面白かったというのは、笑えた、ということではない。だが、笑えなかったということでは決してない。むしろ、大いに笑ったのだが……。
僕は批評が好きだから、つまり、そこで何が行われていたのかということを考えて、構造や現象を取り出して、言葉にするのが好きだ。だから分析的に、例えば「桜の女の子」について書くとして、ラーメンズの「ギリジン」シリーズなどを挙げながら、舞台上の一人がしゃべり、一人が黙っているという構図を考察してみることはできるけれど、あまりしたいと思わなかった。
同様に、あの不思議なやり取りを、解釈の難しい台詞を、形容する言葉はいくつか浮かぶのだが、言い表すことによって固定してしまうこと、ある型にはめ込むこんでしまうことに対して、強い拒否感がある。
どんな感想も、「僕たちの終末」を見て、ライターとして身につまされたという自分語りもね、全然やりたくない。無邪気さと図太さがあればな。とりあえず、次回は10月ということで、先のことすぎて、仕事がどうなってるかもわからないし、チケットは買わなかったけど、必ず見に行きたいと思う。