ブログ「いらけれ」

持ってるものを認めて自分に言い聞かすより
ないものを数えて欲するほうが自然
だから痛いのは当然
何度も拭って 染みついた考え落とす方がつらいね

泉まくら「さよなら、青春」

「死人に口なし」という言葉がなければ、どうなっていたか分からない人生だ。誰にも追記されないウィキペディアは悲しい、それならばまだしも、デマや嘘を訂正できないことだってある。僕は僕の物語を更新しなければならないと、ある時から自覚的になった。

物語的に、主人公として渡っていかなければならない暮らしの、新たな章を開くために、だから僕は祈ることにした。朝から忙しく動き回った一日の晩飯を食べた後に、それでも、陽が沈んだ街へ出た。人生をドラマチックに彩るためだけに。

祈るというのは文字通り、神社に行って手を合わせるということだ。今日面接をしたばかりだから、おそらくはまだ「酋長の踊り」にはなっていないだろう。
「酋長の踊り」は、ある部族の酋長が、若者たちのライオン狩りの成功を祈って踊るのだが、ライオン狩りが終わって帰路にある時でも、酋長は成功を祈願し踊り続けるという話だ。すでに狩りの成否が決まったあとに、その幸運を祈るとはどういうことかが哲学的な問題となる。一見すると、終わった出来事について祈るというのは、おかしなことのようにも思えるが、例えば、遠くに住む親戚の家の近くで大規模な災害が起こったというニュースを耳にして、親戚が巻き込まれていないことを祈ったり、試験の結果発表を、神社に合格祈願をしてから見に行ったりというのは、誰もが経験のあるようなことだし、それほどおかしいとも思えないだろう。
僕がここで言いたかったのは、後から祈ることについてではない。後から祈ることのおかしさについて考えることによって、後からだろうが前だろうが、いずれにしても、そもそも祈りなどというものに効力はなく、意味などないのではないかということが、きれいに忘れ去られてしまう。そのことが面白いと思った。

もちろん、すでに面接官の気持ちは固まっていて、落ちているのかもしれないが……夜の神社は、なおさら人がいない。昼間にだって、ほとんどいないのだから。恐々と境内に入ってお社まで行き、賽銭箱の前に立つと、不届き者を追い返す防犯ライトが点灯した。悪いことをしているみたいだ。1円玉を投げて、からんと音が響いた。そそくさと立ち去った。次の日の朝、散歩をしている途中にも寄った。祈らないと落ちる、なぜだかそう強く思って、財布から5円玉を出して握った。6円は、インターネットを使って稼ぐのは結構大変だ。6円がもらえるアンケートの回答には、5~10分ほどかかることが多い。でも、神頼みに差し出すのには、少なすぎる気さえする。金銭感覚というのは、よく分からないものだね。