ブログ「いらけれ」

僕がイヤホンをして歩いていた時、とても認められないようなことを抱えながら、イオンの前の道を真っすぐ行って、グルメシティ立川若葉店に向かう途中の名前も知らない道で、自分がどこにいるのか分からないまま、何かのラジオ番組の録音を聞いていたその向こうから、別の音がやってきた。イヤホンを外して、僕はそれが壁ではないこと、ざわめいた声であることを理解した。右を向いて見えたその音の出所となっている建物は、学校らしかった。そのまま歩を進めて「○○中学校」と書いてあるのを見つけたから、僕の予想は合っていた。
声は壁のようだった。新しい緑の下で、賑やかなそれを僕は聞いた。すべてが重なっていることによって、一つ一つの粒は潰れた。そこにいる中学生に、それぞれの人生があることや、もっといえば、それぞれの顔があることすら、まったくもって失われてしまっているかのようだった。
僕は、この前に野球場へ行った時も、似たような感想を抱いたことを思い出した。そこにいた人々の声は、固有性を手放して、どっと沸いた歓声の壁の一部分になっていた。壁のなかにいた僕は、壁になった人々の、少し気が大きくなっている顔を見た。いや、気が大きくなっているように、僕には見えた。集団というものに対する恐れが、僕の中にあったのだ。

幸せになるということを僕が考えた。そして、砂漠を歩くしかないのだと思った。この砂漠は、望んでたどり着いた場所ではない。砂漠には、僕が生きていくために必要なものが、ほとんどない。「心が乾いている」というような、生易しい比喩ではない。機器の要らないARは、それはそのまま現実なのだ。僕の目にはそう見えているのだからそうだ。歩きたかったわけでもなく、歩く以外の選択肢がないということなのだ。ここで干からびるか、向こうの砂の上で干からびるかという差は、とても小さい。見る人によっては同じだが、違うと思うのは僕で、僕の美意識に僕は殉ずる。

あなたには関係のない話だし、それが日記というものだ。書いてなかったけれど、すのこベッドと長座布団をネットで買った。ネットで買う前には、行動範囲のスーパーマーケットを回ったが、すのこベッドは置いてなかったし、長座布団は小さかった。長座布団は、6月下旬に入荷するということだったけど、でも、すのこベッドの上に僕はいる。組み立てることぐらい、なんてことないって思っていたけど、六角レンチの短い方をネジに差して、長い方で締めようとする人間には重労働だった。汗だくになって、テレビのヤクルトスワローズは満塁ホームランを打たれた。完成は満足だった。二つ折りにして、布団を干すことができるからだ。一通り二つ折りにうっとりした後、床に敷いて、その上に布団を敷いて寝転がったら、木の硬い感触が腰に伝わってきた。マッサージのようで、身体がほぐれた。心にはまだ、硬いところが残ったままだったけれど。