9回裏

ブログ「いらけれ」

何が表で何が裏なのか分からなくなってしまった。僕の実存は、両方にかけられていながら、そのどちらでもない。ありふれた「表が建前で、裏が本音」という訳でもない。かといって、表が本音で、裏が建前でもない。だから、二つに分かれた僕に、表と裏というような性格付けが、そもそも間違っているのであって、いうなればAとBというようなものだ。それは僕の血液型がAB型であるのと同じように……って、ただツイッターアカウントを二つ持ってるのが、なんかなーって思っただけで、血液型で人の性格が分かるとか信じているわけじゃないし、ほらこのように、ここにだって嘘があって、すべては虚実の皮膜の上にあって。

半透明のあんかけの中のブロッコリー越しの、ゆっくりと回る観覧車は野球場の向こうにあって、客席に飛び込む白球は、四角い画面に映し出されている。見ている中華料理屋でゆっくりと過ぎる時間は、土曜日の午後二時にだけ許されている。
私は、味による快楽、あるいは不快という無為の向こうにあるもの、もしくはこちら側にあるものの事を考える。いずれ来る救済に向けて、いまここで労働するわけでもなく、時間が通過するのを待つように、ただ5円玉をつなげて塔を作ったり城を作ったりしている父の、その灰色の背中が脳裏に浮かぶ。心の平安が欲しい、中華丼を食べ終わる前に。

仕事で内実を知っているから「あなた、お金をもらっているではないですか。それに、言えばいくらでも訂正できるし、掲載を取りやめることもできる。そもそも問題があるなら直接言えばいいのに、ツイッターで文句を書くのは、フォロワーへのアピールでしょ」っていう案件を見かけた。ここに名前を書いて批判しない程度にはどうでもいいことだし、僕も同じ穴の狢だけどさ。
よくツイッターとかで裏側を邪推している人がいる、でもそれは大抵的外れだ。また、当事者の振る舞いや発言には、利害がさまざまに絡み合っていて、すべてが正しいというわけじゃない。黙っている人だけが知っている、語られない真実というのが世界にはある。なのに、外側から何かを知った気になる。
指先での反応で生きる僕たちが、適当な言葉に流されていくのは仕方がないのだろうか。僕もそれに加担しているところもあるし、ポリコレに目覚めても、人間などという愚かな存在は100%真っ当ではいられないというのが真理だ。それが真理だとして、問われるのは、そこから何ができるかだろうと、僕に思う。

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤