ブログ「いらけれ」

※これは、2019年3月31日0時より・・、書き始められたブログです。

ついに、0時を越えてから、書き始めるようになってしまったか、俺よ……。まあ、このところのこのブログ、読んで二人とかなので、その二人が読み始めるタイミングまでに書けていればいいんだけど。
一応の理由はあって、Windowsのパソコンにありがちな、ディスクの使用率が100%になるあれで、パソコンが動かなくなってしまったので、アップデートのための再起動とか、いろいろやっていたのだ。でも、そんなのは言い訳で、やる気があったころは、公開時間が迫ってくれば、スマホ使って書いてたわけだし。
真剣に考えると、もう27歳なわけだし、やるべきことは他にいろいろあって。それでもまだ、続けていたいと思ってはいるけど。明日のことは分からない。

心の中にある思いには、大きすぎて取り出せないものがある。

目の前で起こっている出来事を、とにかく無心に見つめることから始まる。しかし、顔や態度には出さないし、表面上はにこやかに応対する。内心の自由。テレパスさえいなければ、心の内で思っていることが、知られることはない。見ているものを、冷静に、そして批評的に分析していることもあれば、それにかき乱されていることもある。怒っていることも、当然。でも、その出来事と、それよって生まれた気持ちのセットは、とてもじゃないが書くことができない。その出来事にかかわっている人が、知らない人ならいいけど、"友達"であることも多く、良く言えば配慮しているから、本音を言えば面倒くさいから。だが、いつかネタにしてやろう、小説のなかに取り込んでやろうと思っているので、だから10年後の僕が書くものに期待していてほしい。

指でこすったら消える悲しみ。

野球とかサッカーの実況・解説について僕は、好き嫌いが非常にはっきりしていて、嫌いな人については、心底憎んでいたりするので、そこに多様性はない。「まじでふざけんな」とか思っているけど、別にその人が業界から消えてほしいとか、仕事をするなとか思っているわけじゃなくて、ただただ、実況・解説なしで場内の音声だけの副音声も用意してくれって思うだけだ。

後付けで、言葉を本当にしていく。

多くの人から、あらゆる話題について、学ぶ前にまず意見が出てくるという感じがある。教育の質が低劣だったとしたら、教育は成功したのだろうと思う。誰もが、「なぜこうなってしまったのか」と、絶望を深めている。おそらく、失敗の源流にまで遡って、あらためて考え直す必要がある。研究と実践の両面から、アプローチしなけばならない。


Bibio – Curls (Official Video)

ブログ「いらけれ」

速報性があるから、野球の話をしよう。先週末ぐらいから、球春到来が待ちきれない思いでいたわけだが、開幕前日の木曜日には、フジテレビONEで『プロ野球ニュース』、NHKのBS1で『球辞苑』、それぞれのスペシャル番組が19時から放送されていて、視聴者層丸被りなのでは?と、する必要のない心配をして、僕は当然のように『球辞苑』を見て、桑田のバント処理ステップに、ひたすら感動したりして(『プロ野球ニュース』は再放送で見た。相変わらずだなあと思った。こちらにも達川が出ていた)、とにかく野球というのは良いなあと思っていた。そして開幕、じりじりとした試合展開の末のサヨナラ暴投負けを見て、「そんなんあるんか」ってひとしきり乾いた、引き攣った笑いをした後に、したたか落ち込んで酒を飲んでいる。野球なんて嫌いだ……が、今年こそ、神宮に応援に行くぞ。

新しい環境に移ることは得意ではないものの、そもそも僕は、地球に生きていることが苦手なので、花粉症を除けば、そこまで春に苦手意識を持っていなかったのだが、このところ好きなラジオ番組がバタバタと終わっていて、とても寂しい。僕の人生もそうだし、すべてのものは終わるので、終わることはしょうがないし、別の好きなものを見つければいいのだが、新しく好きになれそうな何かを探すのも、新しく何かを好きになることも大変だから、やはり、どうしても好きなものが減ってしまうという感覚がある。だから、「とても寂しい」という言葉が、とても正確に、僕の心情を表していると思う。

明らかに慣れていなかった私たちは、高級だという噂の肉を、とりあえず鍋の底に置いた。熱くなってなかったからか、「じゅう」という音はしなかった。少しずつ焼けてきたそれに向けて、市販のすき焼きのたれを注ぎ入れた。明らかに慣れていなかった私たちは、とにかくすべての肉を焼いた。溶いた卵に付けて食べた。やわらかい。そして味が濃い。あんなことがあったのに、家族ですき焼きを食べているという状況が、私にはよく飲み込めなかったが、白米はとにかく進んで足りないほどだった。やはり、明らかに慣れていなかった私たちは、高級な肉には、とてつもない量の脂が含まれていることが分かっておらず、野菜や白滝、豆腐といったものが追加されたときには満腹で、すき焼き鍋はかなり余った。高級な肉だけは、かけらも残らなかった。鍋の中身は、翌日になって、卵でとじられて丼の上に乗せられた。昼間のテレビからは、一等くだらない番組が放送されているが、どうでもいいと思えるほどに、それはおいしかった。僕は、この場所にいながら、幸せというものについて、まだ考えていてもいいのかなという気になった。

ブログ「いらけれ」

少年はなぜあれほど、なぞなぞが好きだったのだろう。誰に出すでも、誰に出されるでもなくただ、なぞなぞが集められているという本を読んでいた。

「あなた、ツイートするために本を読んでいませんか……」ああ、根っからの底意地の悪さが出てしまった。僕はただ、読んだってこと、見た聞いたってことをアピールして、それでリツイートされたりすることによって、どうにかなりたいと思って、エンターテイメントに接触するような人にはなりたくないと、常々考えてはいるが、本当に僕が、そういったスケベさを持っていないかと言えば、そんなことはなくて、自分で戒律を破ってしまうこともあるけれど、でも、その気持ちは忘れたくないって思う。流行っているからじゃなくて、興味があるから読んで、よく思われたいから誉めるんじゃなくて、いいと思ったものだけを称賛したい。

図書館に入って、特集コーナーみたいなところにあった『僕たちのインターネット史』がまず目に留まって、それから、「哲学」とか「思想」みたいなコーナーに行って、ふらふらと漂い、「読書」という曖昧な名前の付いたコーナーの本もよかった(『やぎの目ゴールデンベスト』とか)けど戻って、棚に合わせて視線を横移動させて、前来たときにも気になった『ヒーローと正義』を借りて、『僕たちのインターネット史』を借りて、もう一冊、本当はサークルの始め方というか、趣味の会の立ち上げ方みたいな本を借りたかったんだけど、どうやって検索しても、僕が求めているような内容が書かれた本には行き当らなかったから、それは、徒手空拳で始めるしかないのだろうと思い直し、でも、なんだかもう一冊借りたい熱が体内にあって、一応「文章」とか「文学」と名付けられたコーナーにも寄ってみたら、『小説家の饒舌』があったから、これは借りないといけないだろうと思ったから、三冊の大きさの違う本を手に持っていた僕は、この一か月で一冊しか本を読まなかったのに、である。

親に「おいしいものでも買ってきて」と言われたから、まっすぐ帰らずに、結構歩いたところにあるケーキ屋を外から見て、ショートケーキ1個に300円出せる大人を目指そうと思った。その後、いなげやに行って買ったそれなりに大きいレアチーズのタルトケーキは、300円しなかったぞ。
改めて、言葉は呪いだと思う。わざわざ遠回りしてでも、甘いものを買って帰らないと、悪い気がしていたからだ。

あったかくって嫌になる外気温は、そこに流れる大きくはない川の価値を上げている。水面がきらきらしていて、そちらにばかり目をやりながら、川沿いを歩いていたら、流されることなくとどまっている柑橘系の実が、とてもおいしそうだった。うっとりとした気持ちで、僕がそこにいたのは、「夏休みに、川に遊びに行って、そこで冷やして食べたスイカ」という、自分にはあったんだか分からないような、あるあるとつながっていたからだ。自然と鼻歌が出た、即興の。

ブログ「いらけれ」

歩き出したときから、この日のことは、ただただ普通の文章として書きたいと思っていた。

24日は日曜日で、前日には、ただでさえ苦しい台所事情の中、なぜかブログ記事を二本書き上げ、その上、今日返却予定の『電化製品列伝』をなんとか読み終えて、これも一本の記事として書くことに決め、さらに朝には、『文化系トークラジオLife』のアーカイブを聞き始めて、この後、歩きながら聞いてネタを拾い、一本の記事にしてしまおうと考えていた。明日には高級肉が届くし、そのことも書かなければならない。

僕には時間がない。そんなことは重々承知の上で、歩き出す。書かなければならないことに、押しつぶされてしまいそう。外は、春らしい暖かさだった気がする。『Life』で吹き出しそうになったり、ニヤニヤしたりしていたので、人とすれ違うときに、気味悪がられていたはずだ。

向かったのは廻田図書館で、この前行ったことも書いたけれど、そこの棚揃え(なんて言葉はないと思うが)がよかったので、良い本との出会いを期待していた。40分ぐらい歩いた。

借りていた『電化製品列伝』には、短冊形の紙が挟まっている。返却期限が書かれたその紙は、僕が、電車の中で本を取り出して、読み始めようとしたときに、外へ飛び出した。きれいな回転がかかった紙は、奇跡のようにクルクルと、風に乗って川を渡り、対岸に座るおばさんの足元までたどり着いた。見事な飛距離。おばさんは、何事かと足元に目をやり、それにつられた両脇も、少し前のめりになって覗き込んだ。その紙の価値を知っているのは僕だけで、だって、返却期限は延長していたから、そこに書かれている日付には一つも意味がないし、いれっぱなしにしていただけの、はっきりいってしまえば、ごみだったが、なんだか大ごとになってしまって、申し訳なかった。手を伸ばして拾ったおばさんは、紙に書かれていることを確認する前に、僕に向けて差し出したから、受け取らないわけにもいかない。「ありがとう」ではなくて「すいません」と言って、本の表紙と一ページ目の間に、すぐに挟み込んだ。

それ以前からそうだったとはいえ、それ以前より大きな問題となっていると思う。事実誤認や、もっと言ってしまえば嘘、あるいは極端に偏った内容の本が、指摘されてもなお流通して続けている現在、そのことを知ってしまった僕は、だんだんと、本を手に取れなくなってきている。もちろん、それ以前から、本に瑕疵が含まれていることなんて、人間の営みである以上ざらにあったはずだし、どんな本でも鵜吞みにすることなく、注意深く読まなければならなかったのだろう。しかし、少なくとも、間違いがないように作られているはずで、間違いがないことを目指しているはずだという信頼はあったから、知らない本でも、臆せず手を伸ばすことができていた。今ではもう、例えば、知っている著者であるとか、知っているレーベルやシリーズでなければ、間違った知識をインプットしてしまうのではないかと、とても恐ろしい。(つづく)