ブログ「いらけれ」

「思いがけず泣いた」りしている後藤さんは、次回のデモクラシーカフェのテーマだからと、『文化系トークラジオLife』に、だいぶ昔に友だちについての回があったなあと、アーカイブを再生し始めた。湯船のなかに、沈んで。

2007/04/22 「友達」 アーカイブ

文化系とはなんぞや、という話なんですが、いわゆる理系、文系の文科系ではなくて、カルチャー系の文化系という字を書きます。

体育会系の人たちみたいに、華々しく活躍できる場所があるわけでもなく、オタクな人たちみたいに、世界に通用するポップカルチャーとも縁遠く、普段は地味〜に生活してるんだけど、実は色々とこだわりがあるんだ、そんな人たちのための番組が、この『文化系トークラジオLife』です。

自分の好きなものを周囲に説明しても誰も知らないとか、大人になってから高校や大学の時にしていたような話しなくなったなあと思っているあなた。自分のマニアックな属性をひた隠しにして生きているあなた。あなたの居場所はここにあります。

これからの二時間半、普通じゃできない、けど、かなり楽しい文化系トークにお付き合いください。

これが、深夜に番組の時間帯が移った一発目だったって、そんなこと、ぜんぜん覚えていなかった。絶対に二回ぐらい聞いたことあるはずなのに。上に書いたのは、チャーリーが冒頭に話していた言葉。これも覚えていなかったけど、改めて聞いてみて、とても熱くていいなって思ったから、お風呂の中で、ラジオクラウドの0.5倍速再生の機能を使って書き起こして、のぼせるかと思った。

(僕がこのように、好きなものを書き起こして、世界に残したところで誰も読まなくても、それでも書き残していくのは、僕が読み返すことができるからだ。とどのつまり、僕に友達はいらない)

以下、聞いて面白かったネタ
・チャーリー、社会人と学生での友達の違いについて話すなかで、「卒業式では必ず『学生時代の友人関係は何ものにも耐え難い』って…」と、言い間違える
・チャーリー、喫煙所、オープンスペースの話題で、すでに『ウェブ社会のゆくえ』(2013年)で書かれる「多孔化」につながる話をしている!
・佐々木サン、"一人セカイ系"
・Life打ち上げでカラオケが行われたらしい。森山、佐々木両氏で「シャングリラ」(チャットモンチー、電気グルーヴ両方)をデュエット
・チャーリー、「最近、ネットで流行ってるツイッターっていうサービスが…」、「最近プレステで出た『ひぐらしのなく頃に』…」等発言。時代を感じる。あと、番組通して、めっちゃmixiの話が出てくるところも
・仲俣サン、免許の学科試験に落ちたことがある
・森山サン、男女の友情について「セックスできる相手じゃなきゃ、友達になれないんだけど、絶対にセックスはしちゃ駄目」
・AVまわりの話題、チャーリー「氷高小夜」、斎藤「わくわく動物ランド」、森山「Oh Yeah」、津田「ラーメンを戻す」
・星野源『ばらばら』を、すでに森山サンが紹介している
・「バージニア工科大学銃乱射事件」のこと、すっかり忘れてしまっていた。ニュージーランドで銃乱射事件が起きたばかりだが、<似たような事件>として、さまざまなことを忘れていく自分が恐ろしい
・森山サン、メールで告白、「一週間後に告白する」と予告するという、今どきの学生について、「真剣に告んなきゃだめだって」
・「福田和也が立川談春に会って、ほぼ第一声で『友達になってください』と言った」というエピソード(佐々木サン)
・佐々木、仲俣両氏「友達だよね?」と確認しあう
・detune.が『わ・を・ん』をリリース。番組にメールを送っている
・アナというバンドの結成話、『今夜はブギーバック』のオザケンパートを口ずさんでいたら、「1、2、3」と入ってきたことが出会いとチャーリーが紹介しているが、本当?
・黙ってオザケンのCDを差し込む黒幕
・チャーリーと黒幕、打ち上げでブギーバックを歌っていた
・なお、その打ち上げのカラオケにいなかった斎藤、津田両氏、若干の疎外感を感じる

ほら、聞きたくなったでしょう(そうでもないのかな?)。まあ、聞いたところで、"ともだち"というものの謎や、それに対する疑問が、すぐに氷解するなんてことは、ないわけだが。

僕としては、友達というのは、ある種、全人格的なというか、すべて分かりあうもの同士というイメージと、機能分節的なというか、「飲み友達」、「将棋友達」、「ネット友達」等なんでもいいけれど、それぞれに分かれているというイメージがあって、で、全人格的なつながりは鬱陶しいというのと、機能分節的なつながりは味気ないというのの、そのどちらにも真実があって、両方の間にあるものなのかなと思った。

ブログ「いらけれ」

昨日は、ほんの少しだけ嘘をついて、それを君が、気づいていなければいいなって思うって書いて、すぐ詩情を打ち消すように、何が嘘だったかをバラす(と書こうと思って、「バラ」とキーボードで打ったところで、予測候補に「バラセメント」と出てきたので、なんだろうと検索してみたところ、これは袋詰めされていない粉末のセメントのことらしくて、それを運搬する「バラ車」というのがあるらしいので、画像検索してみたら、これがめちゃくちゃカッコイイ!世で"男の子らしい"と言われているものが、子どものころからそんなに好きじゃなくて、車にもあまり興味ないけれど、この「はたらくくるま」はいいなあと思った)けれど、僕が『電化製品列伝』を読んだのは渋谷へ行く電車の中だったので、つまり「クソッ」という気持ちや落ち込みから救われたのではなくて、「良いものを読んだ……」って陶然として、心地いい春の真ん中の渋谷駅だったのに、あんなことが起こるなんてな。僕は、まだ怒っている。

 なによりその「作用」。布がぴしっとするということ。寒いときに身にまとう布がたとえぴしっとしていずとも、我々は生きていくことはできる。衣・食・住が最低限の生活保障だとしたら、アイロンがけはそれらがかなえられた上にある願望だ。清潔な暮らしを求めてする洗濯や掃除よりも、アイロンはさらに上にある。
清潔で、なおかつぴしっとしたい。
「ぴしっ」に向けて行う作業や費やす時間は、単に生きるだけなら無駄だ。だけども我々はアイロンをかける(僕はクリーニング屋まかせだが)。また大げさな言い方になるが、「世界」を「よく」するため、その世界の末端に置かれた布に、我々はアイロンをかけるのだ。
こうやって書いていくとどうだろう。だんだんアイロンではなく「小説家が小説を書く動機」を説明しているのに似てくるではないか。

長嶋有『電化製品列伝』

これは、フィクションの中に登場する電化製品が、どのように使われて、何をそのフィクションに持ち込んでいるのかということを、仔細に検討し、評論していく本書において、小川洋子『博士の愛した数式』について書かれた章の一部だ。この文章に、僕は同意できた。
フィクションでは、何を書いてもいいのだろうと、僕は思う。品行方正な囚人を描いた『模範囚物語』よりも、『大脱走』の方が面白いのは道理だ。それはエンターテイメントでもあって、悪行には悪行の、ピカロにはピカロの、それ特有の魅力があるのも確かだ。だから、これは僕の目指すところだと思ってもらえればいいのだが、僕は、正しいと思うことについての主義主張を書きたいのではない。そうしたスローガンは、別のところで書けばいい。小説にせずに、それこそ140字にまとめて、ツイッターで書けばいいと思う。でも、世界を良くするとまで大それたことは言わないけれど、行為として「アイロンをかける」ぐらいのもので、僕の書くものがあってほしいと思う。それは正義ではなくて、善良よりもさらに手前にあって、まだ言葉が付いていない概念で、だから、「アイロンをかける」としか言いようのないものなのだ。言うまでもなく、誰もがこれに同意するべきだとは思わないし、布をぐしゃぐしゃにしたい人だって、いてもいいと思う。ただ、なぜかアイロンをかけたいと思う心持ち、人間をアイロンがけに向かわせる何かが、誰とでも共有できる世界が来たらいいなと、少し欲張りだが思う。
長嶋有(ブルボン小林)は、『俳句ホニャララ』というWEB連載の「この世に傍点をふるように」のなかで、「俳句もまたテキストだが、テキストではなく、この世界のわきにふる傍点のようでもある」と書いている。小説がアイロンがけで、俳句が傍点ということだろうか。

※ちなみになので、すべてを分かりたい人は本書を読んでほしいのだが、あとがきにあった「ステレオの表示のPLAは大文字でYだけ小文字の『y』」が、どういうことか分かった。これは『ねたあとに』という、彼の小説に書かれている描写とのことだが、その本を読んでいたにもかかわらず、何も気づかずスルーしていた。装置には、Yを小文字で表示しなければならない機械の事情があった。そして、進化したステレオには、大文字のYどころか、さまざまな文字をを表示する余裕があったということ……だろうか。

ブログ「いらけれ」

今は2019年の3月24日で、22時を回っている。昨日は3月23日で、3月17日のことを、とてもたくさん書いた。とても頑張ってしまったから、一つのやる気も出ない。あれがジャンプならば、これは着地で膝が折れている文字列。僕は、もう無理だと思っている。とりあえず、見たい動画や聞きたいラジオはいっぱいあるけど、それを再生し始めると、そちらに気をとられて、何もしないって分かっているから、数日前にサブスクリプションで配信が開始されたという、ゆうらん船の『ゆうらん船』を聞きながら書くことにした。あ、とても好きなものだから、紹介しておこう。

ゆうらん船『サブマリン』

と、共有ボタンを押したときに事件は起こった。なんか、大学時代に電話番号を交換しただけで知り合いとすら言えない人とか、スマートフォンの連絡先に入っている名前が三つぐらい並んでいた。どうやら、ユーチューブが新しい友だち機能を付けたらしい。それで、友だち候補として表示されていたらしい。マジで、勝手にそういうことするのやめろって、誰も望んでないだろって、何でわかんないのかなー。あと、スマホの連絡先とグーグルアカウントが、知らぬ間に同期されていたから、そこに表示されていたらしく、マジで勝手にそういうことするのやめろっていうんだよー。この同期を解除したり、友だち候補の表示を削除したりしていたら、30分ほどの時間が経っていた。

そういえば、昨日も怒っていたのだった。わざわざ1時間かけて渋谷まで行って、会場アンケートに答えてきたのだが、そこの運営がとにかく酷かった。そもそも、今回のアンケートは謝礼金が少なかったのだけれど、それは了解していたことだ。大抵、謝礼が少ないときというのは、アンケートの量が少なくて早く終わるものだから。しかし、その日に手渡された回答用紙はかなり分厚くて、それにまず驚いていた。ネット上で答えるアンケートにも、そういう「バカアンケート」(と、入力画面が操作しづらいものや、質問数が異常に多かったりするものを、僕が勝手に呼んでいる)は存在していて、でもまあ、ネットのやつは途中でやめたり、適当に答えたりできる。しかし、リアルだとそういうわけにもいかない。どれだけ分量が多くても、僕が記述した回答では物足りないらしいスタッフの、追加で聞いてくる質問が意味不明でも、逃げだすわけにはいかないのだ(逃げ出してもいいけど、もちろん謝礼はもらえないので、交通費の分マイナスになってしまう)。もう二度と、あのリサーチ会社の会場調査には行くまいと決意するものの、今のアンケートシステムだと、どの会社が主催しているのか分からないことも多く、特定の会社の会場調査だけ避けるのは、ほぼ不可能な仕組みになっている。リアルのアンケートで、「バカアンケート」に当たったのが初めてで、ここまで嫌な思いをしたのも初めてだったから、とても参った。気持ちが荒んだ。

この「クソッ」という気持ちから、心の中にブコウスキーが出てくるような落ち込みから、僕を救ってくれたのが『電化製品列伝』と『文化系トークラジオLife』だったから、明日はその話をしようと思う。

2019年3月24日23時58分

ブログ「いらけれ」

デモクラシーカフェが終わって、その日は、感想戦を行うことなく帰ったが、でも、とても充実した気分だった。ここまでの言葉は、裏のないものとして、額面通り受け取ってほしい。月曜日の仕事から始まって、僕には珍しく、一週間ずっと予定があった。嫌だったのは、就職活動と仕事があった4日間だけで、他の3日は、お友達とおしゃべりしたり、落語見に行ったり、イベントに行ったりと、とても楽しく過ごした。

ただし、ここのところ散歩に行けていなくて、少し歩数が足りてないかなあと思っていたので、家でご飯を食べたあとに、健康のためにと、暗くなってから外に出た。昼間に比べれば、だいぶ冷たくなった空気が、とても心地よかった。

その時、胸に広がった充実感は、言葉にできないほどだ。「言葉にできない」と、言葉にするしかないほどの幸福だった。それは、それまでの予定をやり遂げたからではなくて、一人で散歩に出たからという理由によって。僕は、僕の何たるかを知った。どんな楽しいことよりも、それがどれだけ楽しくても、夜の大きな霊園に、一人でいることに、充実感を感じてしまう人間なのだ。だとしたら、僕という人間は、出来損ない以外の何なのだろう。

そこで思い出したのは、デモクラカフェの来月4月のテーマだった。「友だちってなに?」。僕に、真に"友だち"と呼べるような関係の人がいたことなんて、一度でもあっただろうかと、考え込んでしまう。"友だち"と、胸を張って紹介できる人なんて、僕には、できなかったのではないだろうか。みんな、後藤さんのことが嫌いで、"友だち"だと思ってないんじゃなかろうか。そしてそれは、僕が、みんなを"友だち"だと思ってないことが、みんなに伝わってるからじゃないだろうか。

物心ついたときから僕は、ずっと一人だと感じてきたし、それは今もそうだ。人混みでも、クラスでも、家庭でも、初めて彼女と向かい合ったときだって、孤独だった。誰かに分かってもらおうなんて、さらさら思ってないのに、「誰も分かってくれない」と甘えている。そこには、僕が一人だった。耳には、いつも通りイヤホンをしていた。

星野源「ばらばら」

気が合うと 見せかけて
重なりあっているだけ
本物はあなた わたしは偽物

この曲だと思った。スマートフォンで再生して、思いがけず泣いた。世界は、そしてぼくらは、ひとつになれないのだ。そのままに、どこかにいくしかない。でも、それは希望でもあって、重なりあったところは、紛れもなくたったひとつのものだし、ばらばらのまま、どこかにいくことはできる。

なんて、「友だちってなに?」について、後藤さんは涙を流しながら考えました。なので、「分かる分かる!」とか、「その考え間違ってるよ!」とご意見のある方、あるいは、そんなに言いたいことがなくても、人の話を聞くだけでも大丈夫なので、テーマが少しでも気になるという方は、デモクラカフェに参加してはいかが(詳細はこちら「4月のテーマ 友だちってなに?」)?……という、長たらしいお誘い文でした。