速報性があるから、野球の話をしよう。先週末ぐらいから、球春到来が待ちきれない思いでいたわけだが、開幕前日の木曜日には、フジテレビONEで『プロ野球ニュース』、NHKのBS1で『球辞苑』、それぞれのスペシャル番組が19時から放送されていて、視聴者層丸被りなのでは?と、する必要のない心配をして、僕は当然のように『球辞苑』を見て、桑田のバント処理ステップに、ひたすら感動したりして(『プロ野球ニュース』は再放送で見た。相変わらずだなあと思った。こちらにも達川が出ていた)、とにかく野球というのは良いなあと思っていた。そして開幕、じりじりとした試合展開の末のサヨナラ暴投負けを見て、「そんなんあるんか」ってひとしきり乾いた、引き攣った笑いをした後に、したたか落ち込んで酒を飲んでいる。野球なんて嫌いだ……が、今年こそ、神宮に応援に行くぞ。
新しい環境に移ることは得意ではないものの、そもそも僕は、地球に生きていることが苦手なので、花粉症を除けば、そこまで春に苦手意識を持っていなかったのだが、このところ好きなラジオ番組がバタバタと終わっていて、とても寂しい。僕の人生もそうだし、すべてのものは終わるので、終わることはしょうがないし、別の好きなものを見つければいいのだが、新しく好きになれそうな何かを探すのも、新しく何かを好きになることも大変だから、やはり、どうしても好きなものが減ってしまうという感覚がある。だから、「とても寂しい」という言葉が、とても正確に、僕の心情を表していると思う。
明らかに慣れていなかった私たちは、高級だという噂の肉を、とりあえず鍋の底に置いた。熱くなってなかったからか、「じゅう」という音はしなかった。少しずつ焼けてきたそれに向けて、市販のすき焼きのたれを注ぎ入れた。明らかに慣れていなかった私たちは、とにかくすべての肉を焼いた。溶いた卵に付けて食べた。やわらかい。そして味が濃い。あんなことがあったのに、家族ですき焼きを食べているという状況が、私にはよく飲み込めなかったが、白米はとにかく進んで足りないほどだった。やはり、明らかに慣れていなかった私たちは、高級な肉には、とてつもない量の脂が含まれていることが分かっておらず、野菜や白滝、豆腐といったものが追加されたときには満腹で、すき焼き鍋はかなり余った。高級な肉だけは、かけらも残らなかった。鍋の中身は、翌日になって、卵でとじられて丼の上に乗せられた。昼間のテレビからは、一等くだらない番組が放送されているが、どうでもいいと思えるほどに、それはおいしかった。僕は、この場所にいながら、幸せというものについて、まだ考えていてもいいのかなという気になった。