昨日は、ほんの少しだけ嘘をついて、それを君が、気づいていなければいいなって思うって書いて、すぐ詩情を打ち消すように、何が嘘だったかをバラす(と書こうと思って、「バラ」とキーボードで打ったところで、予測候補に「バラセメント」と出てきたので、なんだろうと検索してみたところ、これは袋詰めされていない粉末のセメントのことらしくて、それを運搬する「バラ車」というのがあるらしいので、画像検索してみたら、これがめちゃくちゃカッコイイ!世で"男の子らしい"と言われているものが、子どものころからそんなに好きじゃなくて、車にもあまり興味ないけれど、この「はたらくくるま」はいいなあと思った)けれど、僕が『電化製品列伝』を読んだのは渋谷へ行く電車の中だったので、つまり「クソッ」という気持ちや落ち込みから救われたのではなくて、「良いものを読んだ……」って陶然として、心地いい春の真ん中の渋谷駅だったのに、あんなことが起こるなんてな。僕は、まだ怒っている。
なによりその「作用」。布がぴしっとするということ。寒いときに身にまとう布がたとえぴしっとしていずとも、我々は生きていくことはできる。衣・食・住が最低限の生活保障だとしたら、アイロンがけはそれらがかなえられた上にある願望だ。清潔な暮らしを求めてする洗濯や掃除よりも、アイロンはさらに上にある。
清潔で、なおかつぴしっとしたい。
「ぴしっ」に向けて行う作業や費やす時間は、単に生きるだけなら無駄だ。だけども我々はアイロンをかける(僕はクリーニング屋まかせだが)。また大げさな言い方になるが、「世界」を「よく」するため、その世界の末端に置かれた布に、我々はアイロンをかけるのだ。
こうやって書いていくとどうだろう。だんだんアイロンではなく「小説家が小説を書く動機」を説明しているのに似てくるではないか。
長嶋有『電化製品列伝』
これは、フィクションの中に登場する電化製品が、どのように使われて、何をそのフィクションに持ち込んでいるのかということを、仔細に検討し、評論していく本書において、小川洋子『博士の愛した数式』について書かれた章の一部だ。この文章に、僕は同意できた。
フィクションでは、何を書いてもいいのだろうと、僕は思う。品行方正な囚人を描いた『模範囚物語』よりも、『大脱走』の方が面白いのは道理だ。それはエンターテイメントでもあって、悪行には悪行の、ピカロにはピカロの、それ特有の魅力があるのも確かだ。だから、これは僕の目指すところだと思ってもらえればいいのだが、僕は、正しいと思うことについての主義主張を書きたいのではない。そうしたスローガンは、別のところで書けばいい。小説にせずに、それこそ140字にまとめて、ツイッターで書けばいいと思う。でも、世界を良くするとまで大それたことは言わないけれど、行為として「アイロンをかける」ぐらいのもので、僕の書くものがあってほしいと思う。それは正義ではなくて、善良よりもさらに手前にあって、まだ言葉が付いていない概念で、だから、「アイロンをかける」としか言いようのないものなのだ。言うまでもなく、誰もがこれに同意するべきだとは思わないし、布をぐしゃぐしゃにしたい人だって、いてもいいと思う。ただ、なぜかアイロンをかけたいと思う心持ち、人間をアイロンがけに向かわせる何かが、誰とでも共有できる世界が来たらいいなと、少し欲張りだが思う。
長嶋有(ブルボン小林)は、『俳句ホニャララ』というWEB連載の「この世に傍点をふるように」のなかで、「俳句もまたテキストだが、テキストではなく、この世界のわきにふる傍点のようでもある」と書いている。小説がアイロンがけで、俳句が傍点ということだろうか。
※ちなみになので、すべてを分かりたい人は本書を読んでほしいのだが、あとがきにあった「ステレオの表示のPLAは大文字でYだけ小文字の『y』」が、どういうことか分かった。これは『ねたあとに』という、彼の小説に書かれている描写とのことだが、その本を読んでいたにもかかわらず、何も気づかずスルーしていた。装置には、Yを小文字で表示しなければならない機械の事情があった。そして、進化したステレオには、大文字のYどころか、さまざまな文字をを表示する余裕があったということ……だろうか。