本を読むことができない。借りた本を、一週間一ページも読むことができなかった。僕には未来がないと思う。それなのに、矢野利裕さんの『コミックソングがJ-POPを作った』を買ってしまった。土日を挟んでしまったから、まだ届いていないけど。働かないで、好きなことだけやれたらいいのにと思う。あと、さやわかさんの『名探偵コナンと平成』は、来月買おうと思っている。なぜかというと、楽天ブックスで千円以上買うと、その月の楽天市場のすべての買い物で、ポイントが0.5倍になるからだ。しかし別に、他に買う予定のものがあるわけではない。もし、突然欲しいものが出てきたらと、余計な心配をしている。貧乏人は、何も買わないほうがいいと思う。いや、とにかく僕は、文化に身をやつすべきなのだ。だから、本を買ったこと、本を買おうと思っていることは完璧に正しい。それが破滅に向かう道だとしても、何も心配する必要はない。誰の進む道も、待っているのは破滅でしかない。天国にも地獄にも、金も物も知識も持っていけないのだから。そういえば、『小説家の饒舌』の前田司郎さんの回で、『大木家のたのしい旅行 新婚地獄篇』という小説の話をしていて、人類が生まれたころから地獄はあったはずなのに、「釜茹で地獄」というものがあるということは、人間の文化が地獄に下りていっているはずだから、今ではネットでチマチマ悪口書かれるような地獄があるはずだ、というようなことを言っていて、そういう視点って面白いなあと思った。これは引用に当たるのだろうか。どうでもいいが、いずれにせよ僕の耳は、休むことがない。このような情報ではない、情報では決してない、ある種の知識と発想とエピソードが混ぜ合わされた何かを、常に摂取しようとしているから、イヤホンが刺さっていないことがない。僕が、物知りだって言われることが多いのは、たゆまぬ努力のおかげではなく、つまりインストゥルメンタルではなくコンサマトリーに(久しぶりにこの言葉を聞いたのだって、僕が『文化系トークラジオLife』の4月の予告編をチェックしたからだ)、ただただ、ラジオやポッドキャストを楽しんできたからだ。聴覚刺激のジャンキーなのだ。音楽だってよく聞く/効く。さて、ここで一曲。
TWICE “FANCY" M/V
このMVを見て、ヴェイパーウェイヴに言及する人がほとんどいないのは、どうしてなんだぜ。これがヴェイパーウェイヴを意識したものでなければ、全員でダンスしている後ろの映像にノイズをかける必要も、ダサすぎるCGを使うわけもないと思うのだが。英語で検索すれば、ちらほらとツイートを見つけることができたけど、日本語で言及しているのは、僕以外には1人だけだった。曲の方は、評判が芳しくないようだが、僕も初めは微妙だなと思っていたものの、作曲家を調べて、ブラック・アイド・ピルスンが作っていると知ったからか、今では結構好きだ。ぜひ、一度聞いて終わりにするのではなくて、リピート再生しながら作業してほしい。僕は、これを流しっぱなしにしてブログを書いていたら、とても進んだ。つまり、空虚なのだなと思う。そこが素晴らしくて、また、それはやはり、ヴェイパーウェイヴと通じる感性なのではないだろうか。
受像
世界に閉口する
これから始まるべたべたとした文章、スティッキーなプローズ。僕は廻田図書館を後にした。入ったときにロビーで行われていた選挙の何かは、出るときには終わっていた。まさか、あんなところで開票するわけはないだろうが、何だったのだろうか。そこで僕は、主に文学や社会学、哲学の棚の前にいた。近くのテーブルでは若い女性が、勉強なのか仕事なのか、何かの処理にずっと手を動かしていた。そして、はっきりと文学の本の背表紙に、背を向けていた。とても象徴的だと思った。そのときの僕はまだ見ていないが、株の勉強のために見た初心者向け解説動画のなかで講師は、50万円の資金で取引を行っているという視聴者からの質問に、50万円なんてすぐ溶ける、50万円ぐらいなら溶けても容易に稼げるのだから、まずは1000万円にしろ、1000万円になればかなり安定すると話していた。セグメンテーションである。同じ地球で生きているように見えるが、僕らは個別に、平行世界を生きているのだ。例えばあなたは、ピューディパイを知っているのか、ということである。僕は、この世界一のユーチューバー(だった?詳しい事情は分からない)の名前を、最近知った。僕は、それなりに文化というものに目を向けているつもりだったが、『アフター6ジャンクション』に出演していたケイン・コスギが、「ストリーマー」として紹介されていて、もちろんその言葉も知らなくて、それを調べるなかで、やっと彼に辿り着いたのだった。これは、世界が分断されているというような単純な話ではない。これは、僕自身が望んで選んだ分断なのだ。自分で選んだサイトだけ見て、自分で選んだアカウントだけフォローしているから、その外側にある文化の情報は入ってこない。そして、このようにしてインターネット環境を構成している内に、自分の好きなもの以外の情報が表示されていても、目に入ってこないように、スルーしてしまうようになっているのだろう。道に軟球が落ちている。それも、何球も落ちている。なんだろう。それなりに通行量のある道で、危ないと思ったので、縁石の向こうの浄水場の柵の方に避けておく。顔を逆に向ければ、大きなグラウンドがある。そうか、中学校が隣にあるのか。しかし、フェンスはとても大きい。軟球は硬球よりも飛ばないということは、野球経験者にとっての常識だが、そんなことは多くの人が知らない。スタープレイヤーにはときどき、学生時代の打球の飛距離がけた違いで、もともと設置されているフェンスを越えてしまうため、特別な防球ネットが用意されたというような逸話が残っている。もしかしたらここで、未来のスターがけた違いのホームランを打ったのかもしれない。すべては空想に過ぎないが、とても美しい放物線が、僕には見えた。
あだ
植田真梨恵「ダイニング」PV
正当な評価をだれがつけるの
これが愛だと君は言えるの
何になれたらここにいてもいいの
それは、冷静と情熱の間である。あるいは、そんなものはない。アスファルトの上にバナナが落ちている。男は踏み、派手に滑る。それを見て、通りすがりが笑う。不格好な姿の男は、そのまま固まっている。周囲から、徐々に笑いが消えていく。男は死んでいた。笑っていた者は、笑ったことを後悔する。これは実際にあったことではない。これは、私が歩いている間に考えた短編映画の設定だが、撮影される予定はない。世間は10連休だというのに私は、ただただ、先の日曜日のことを思い出している。思い出されている彼は、まだTWICEの『FANCY』のMVを見ていないし、結婚もしていない。つい、そのことを忘れそうになるが、結婚は今もしていないし、『FANCY』については、ここでは書かない。このように覚束ない記憶のように、覚束ない足取りで歩いていた。確かなものというのは、あまりにも少ないから、私は物好きだから、日記を書き続けているものの、普通、人は反応が無ければ挫けるし、人も企業も、金にならなければ終わるのだから、私が確かなものにならなければならないと思った。その第一歩として、好きなものを好きだと言っていくことを決意したのは、私が好きだったネット番組の『ぷらすと』が、一度は終了がアナウンスされていたのに、アクトビラという母船の下で続くというか、死んで復活することが決まって、それには、視聴者の愛が詰まったツイートという後押しもあったということは、基本的には関係ない。そのことが明かされる前に私は、「自分の好きなものについて積極的に発言するアカウントへと変貌を遂げていこう」とツイートしているのが証拠だが、今となっては、この思いを強くしている。「なくなって、ない」で、ゾンビのようにしぶといと書いたしぶとさは希望で、奇跡とはまさにこのように目の前に現れる。言うまでもないことだが、奇跡を可能にするのは、誰かの愛と、誰かの努力だ。この文章はおそらく、ここで終わるべきなのに、文字数が千に足りないから続くというのは、惰性と蛇足の私の人生だ。付け足されるべきでないもので彩られた、考え抜かれていないシナリオの映画を、試写で見た。それなりの予算規模の作品だったけれど、前述の瑕疵だけならまだしも、はっきりと倫理的な問題点を指摘できる物語が繰り広げられていて、日本映画界の未来が心配になる。抽選で当たったそれは、「りきがく」に書かれている映画と、配給会社が同じだった。あまりにもひどい映画が続いたので私は、「この配給会社の株、空売りしてーなー」と思ったが、『CDは株券ではない』ように、映画も株券ではないのだろうから、止めておいた方が賢明だろう。そして、このように書き続けている限り私は、決して図書館に到着しないだろう。
(続)
紺屋の明後日
そうですね、葉書が来ていたので私は、投票に行ってきました。その日のことを思い出しています。
暑かった気がする、なぜなら帽子を被っていたから。黒い帽子は、マスクも付けた僕を、より一層怪しくしている。投票は、かつて通っていた中学校の敷地内に入ることと、あの特殊な紙に文字を書き、そして折ることだけが目的になっている。正直、細かい政策の違いなんて知らないから、僕が投票するべきじゃなかったと思いながら、いつも体育館を出る。僕みたいな馬鹿が、イメージだけで投票してしまうからいけないのだとして、じゃあどうすればいいんだって、候補者の主張を読むなんてつまらないことに、粘り強く付き合うべきだとしても、現実的に無理なのだから。そういうことを考えるために、僕は図書館へ行くのだが、忘れてはならないことは、素晴らしい言説に彩られた出版文化というものがある(あるいは、かつてあった)として、現実がこうである以上、それには何の力もないということだ。はっきりと、敗北している。
それまでに借りていた『ヒーローと正義』という本は面白かった。一から十まで、すべての議論に納得できるわけではなかったものの、古今東西の物語で描かれてきた正義と悪について、興味深い分析がなされていたし、示唆に富む内容だった。例えば、学園ドラマにおけるヒーローとしての先生は、金八先生でもGTOでも、ある種の型破りさを持った、ルールを逸脱している者として描かれる。このことからも、人々は単純に、規範を破っているから悪だと捉えるわけではないということが分かる。そこから、もしかしたら権力者のルール破りですら、誰かにとってはイケてる逸脱に見えているのかもしれないと考えた。現実とは、とかく難しいものである。
あと、この前にも少し書いたけど、『僕たちのインターネット史』も読んだ。インターネット後発参入組だから、普通に知らないことが多くて勉強になるし、インターネットの歴史を語ることから、その当時の雰囲気が分かるあたりも面白い。西海岸的なイデオロギーみたいな話は、それこそお勉強として知っていたけど、より詳細に、そして日本社会におけるインターネットの需要と、それらの思想はどうかかわっていたのか(かかわっていなかったのか)ということについて、理解を深めることができた。普通に、著者二人がわちゃわちゃ思い出を語っている感じもよかった。ただし、やっぱり現代に近づくに連れて、読んでいて気が重くなるというか、暗くなる感じはあって、それは今のインターネットがひどいからって理由によるものだけど、妄想に取り憑かれてしまった人(ネタがベタになってしまった!)が、差別発言を繰り返すようになった今、どういう仕組みを作っていくんですかね?という問いへの答えは、なかなか出ないものだ。
もう一冊、『小説家の饒舌』も借りていたのだが、途中までしか読めなかった。面白くなかったわけではなく、時間切れによるもの。僕は小説家になるので(笑)、参考になるところを拾うつもりで読んでいたが、桐野夏生、阿部和重、古川日出男を逃してしまったのは痛恨の極み。まあ、達成されていないものが多くあればあるほど豊かだし、大事なものに出会えないのが人生かなとも思うので、よしとする。
(続)