(承前)実際にそこで何があり、どんな企業が来ていたのかって、調べれば分かりそうだから、書かないという優しさ。しかし、なんか「優良企業を集めました」みたいな触れ込みだった気がしたのだが、平成も終わるっていうのにどれも労働条件が酷くて、この社会に未来はないのでは?という思いを強くした。
こういう場に行くといつも思うことを、細心の注意を払うことなく書いていこうと思う。就職活動というものを、僕らはさせられておるわけだが、なかには、ここにいてもしょうがないのでは?というような人が必ず混ざっている。
それは彼/彼女たちの挙動や発話、メモの文字などが、"就活"における明示的な/暗黙のルールから逸脱することで、僕に示される。僕は、すべてを分析、分類して、名前を付けて理解することに対して、とても警戒している人間だということは、先に述べなければならない。その上で、彼/彼女たちは、現代では「発達障害」と呼ばれる障害を持っている、といって差し支えないのだろうと思う。
僕が考える問題は二つある。まず一つ。そんな彼/彼女たちが、"就活"をしたいと思うのならば、すればいいと思うのだが、僕たちが共有しているコードから外れているのは明白で、つまり、決して受かることがない、ということ。そして、そのことを伝えるべきなのか、ということ。明らかに向いていないことだとしても、それでもチャレンジしてみるということが、彼/彼女たちにとって大きな財産になるかもしれず、それ自体は、悪いと言い切ることはできない。しかし、そのままでは駄目なことは明らかなわけで、そのことをキッパリ伝えて、無理やりにでも就活生らしく矯正(?)し、面接に受かればいいかというと、僕はそう思わないというか、簡単には頷くことができない。
そして、彼/彼女たちは、"就活"というシステムに乗って、"就活"で見つかるような企業を受けるのではなく、それぞれの特性に合った職場、彼/彼女らが働きやすい環境と出会えることが重要だと思うわけだが、そうした支援の仕組みは、果たしてどこにあるのか、という問題。結局、就職支援だなんだといっても、僕が知っている限りでは、予め想定される"就活"の理想像にいかに近づけるか、というようなことを押し付けられるわけで、そこでは幸せになれない人が、じゃあ次にどこへ行ったらいいのか、誰がサポートしてくれるのかというように、まったく先がなくなってしまう。
人のことなんて考えてないで、まず自分をどうにかしたほうがいいのだろう。イベントが終わって、くさくさした気持ちのまま外に出たが、夕飯を食べる店が見つからず(正確には、知らない店に入る勇気が一切出ず)、1時間彷徨った後に、小諸そばの天丼を食べて著しくガッカリし、東京都の就職支援施設の入ったビルに戻り、就職カウンセリングが始まる時間まで、上の方の階にある休憩スペースに座って、そんなことを考えていた。
でもまあ、アウトサイダーでしかない僕が、このように苦しい人生を送るのはしょうがない。真っ先に僕がやるべきことは、明日更新されるブログを書くことなのだ。そう思ったから、そこで、スマートフォンで「clever ain’t wise」は書かれた。だから違和感のある文章になっており、そのことに気づいた人がいたとしたら、もうその人は、このブログのマニアだといっていいだろう。