ブログ「いらけれ」

なーんか、自分の過去も未来も嫌になって、大きな道路に行き交う車を見ていた。あれは、東久留米のスーパーマーケットまで、4キロ以上歩いた日のことだ。得られる楽天ポイントは、10ポイントだった。比較的暖かな陽気だった。これまでに、一度は見たことのある景色を、いつしか抜けて僕は、知らない街にいた。あとは2キロほど真っ直ぐの道を行くだけだ。知らない街は、目に飛び込む情報が多くて、それがありがたい。

目黒川という名前の川が流れている。遠くからでも見えるように、高く掲げられた松屋の看板の、「松屋」のロゴが小さくて余白が多い。天守閣みたいな家。和食さとの前で、男女二人ずつでたむろする中学生の青春。銀ピカのコンクリート工場。銀ピカのコンクリート工場の大きな姿。筒状の大きな何か。ワクワクする自分。植え込みの前に座り、草を手で片づける作業員の人々。平日に働いていない僕。時給はいくらなんだろう。コカ・コーラって書いてある工場らしき建物。その垣根には、当然だがコカ・コーラの自販機が置いてある。大きな駐車場は、イオンみたいな建物の前に。目的だったマルフジというスーパーまで行って、銀だこおいしそうだなとか思って、ポイントをゲットして折り返す。

イオンみたいな建物の壁に、「本」と書いてあるから、のぞいてみる。人生で一、二を争うほどがっかりする本屋で、もう二度と来ないと誓った。本当にコカ・コーラの工場だった。「工場見学の受付はこちら」と張り紙がしてあるから、いつか工場見学をしようと思う。チャーシュー専門店があるのは、来るときも見た。チャーシュー専門店というだけで、もうおいしそうだ。隣にあるのは居酒屋で、「俺が釣った魚」云々と手書きのボードが出ていたな。手書きのボードといえば、近所のモスバーガーの入口前に置かれているボードが、以前はほんわかした日記みたいな内容だったのに、最近は、「今日は何の日」的な情報が、一切装飾なく書かれるだけになって、ちょっと心配だ。帰り道は短く感じる。ちょっとずつオレンジ色になっていく。家が並んでいる。

玄関が二つある家がある。これだけ書かれていても、なんのこっちゃ分からないだろうが、玄関が二つある家が実際にあった。人生に実感が宿る。もう青梅街道にいる。家までもうすぐだ。綿半スーパーセンターに寄る。綿半は、他のところよりチョコレートが安い。セブンイレブンにも寄る。チョコミルクレープおいしそう。1万7000歩はさすがに疲れた。明日は仕事だっていうのに。最後に駅前のドラッグストアに寄ったら、目薬が170円でビビる。そこで、チョコとすっぱムーチョも買って、家に帰って、すっぱムーチョを一人で食べた。今日なのに、遠い思い出みたいだ、でもこれは、確かに僕らしい人生だ。


高橋徹也 – 美しい人

ブログ「いらけれ」

書こう書こうと思って、毎日自分にがっかりしながら、暖かい布団の中で午後まで眠った。暖かい布団という環境で、すぐにイチコロにとろけてしまう僕という人間の、動物的な部分が面白くて、声を出して笑った。人間をダメにするためには、寒い部屋と、暖かい布団さえあればいいということか。見ていた夢は、高校時代の友人とカラオケに行くというものだった。何を見たからこの夢を見たのか、昨日のブログを読めば、それが分かるかもしれない。

資料を読み込んで書かれた小説、参考文献がたくさん挙げられているような小説に対する、僕の、居心地の悪い心。ウィキペディアじゃないんだから、というような思いか、勉強したから偉い凄い、調べられているからリアルに違いないというような受容に対する反感か、その中心がどこにあるのかまでは、分かっていないのだが。
でも、そういうのもあっていいと思う。そういうものが、果たす役割もあるのだろう。僕がまだ理解できていないだけなのだ、コントを見て、落語の方が優れているとか、言っちゃう人にはなりたくない。ロックが好きだから、ジャズはダメだとか、ミュージカルは分からないから面白くないとか言いたくない。それぞれがそれぞれに、優れているのでも劣っているではなくて、違う方を向いて、違う人のために存在しているのだけなのだ。現実の、目がくらむような複雑さに対応するように、数多の表現が生まれてきたのだから、僕がやるべきことは、僕が伝えたい誰かのために、僕のやり方で書くこと。

日差しの暖かさを感じる日もあったけれど、それでも1月には変わりなくて、強く頬にぶつかってきた風は、頑固に冷たかった。遠くの高層マンションと、右側に並んだ店と、左側の工事中の駅に挟まれた空が、とても青い。心がすっとする。この前は、大きな月が出ていた。月が大きいと、そうテレビで言っていたから、見るために玄関を開けて、すぐに驚かされたのだった。月が出ていようと、雲が出ていようと空は、いつもそこにあって、平等で、何を思うかは常に、自分に任されているのだと思った。
今日も一時間ぐらい歩いた。仕上げとして、川の上に架かっている歩道橋を、久しぶりに渡ることにした。ださいコンクリートの色。頭の中に、飛び降りることを思い浮かべさせるためとしか思えないほど低い柵だ。車のおもちゃの空き箱が置いてある。橋の途中から、柵は高くなる。新しく上に乗せられた金網の向こうは、いつもの夕暮れ。人生の苦しみを、少しだけ忘れていた。
思い立って僕は、その街を、[バンクシーの落書きのない東京]の写真を、スマートフォンで撮った。

ブログ「いらけれ」

肩が凝るということを越えて、首を動かすと筋に痛みが走るようになっていて、もう、生きていけないって思う。スポーツ選手ってさあ、試合前に限らず練習前にも、ストレッチするじゃん?オフィスワーカーも、ホントは仕事前にストレッチとかするべきなんだろうなあ。この痛みに対して、「磁気ネックレスでも買うてやろうか」と思うものの、その科学的根拠の怪しさからやめる。姿勢を直すことと、運動だなあ。あと、目の疲れに目薬は、明日買おう。

なんかこのブログ、このところ特殊回が続いてたから、普通に、なにも考えず書きたいと思っている。

麻雀の「Mリーグ」という、麻雀をスポーツのようにやってるプロリーグがありまして。また、その試合を、スポーツ番組のように振り返る番組がありまして。その中のコーナーで、インスタントジョンソンのじゃいが、名場面を解説する「じゃいの目」というのがありまして。それが記事になったものをヤフーで見まして。それから久しぶりに、麻雀の動画を見まくる暮らしを取り戻した。
麻雀、自分では点計算できないぐらいだが、昔からトッププレイヤーの解説が好きだ。天鳳名人戦(とは何かは、もう説明しません)の、牌譜検討をこばごーがやってる動画とか見てたなあ。それで、今だと日向プロがユーチューブでやってる「麻雀の匠」が面白くて、全部見た。
ただ対局の動画を見ているだけでは分からない、相手がどの牌を、どこから捨てたか、鳴いたかという情報を、まずは覚え、そして推理し、自分の得になるように選択していく、一打一打の裏側にある、理論と思考の鮮やかさたるや。プロの中のプロはすごいなあ、と思う。それで、なおさら自分でやる気はなくなる。
という頭でっかちな方面とは別に、プロたちの人間的な側面も好きで、それは将棋とかも同じこと。前述の番組内には「21人の軌跡」というコーナーもあって、ASAPINの親からの手紙で泣いたり、近藤プロに親近感を抱いたりしていた。なかでも一番驚いたのは、こばごーの回で(「熱闘!Mリーグ#14」、39分ごろから)……歌、上手すぎじゃね!

株でもうかった人の話を読む。それも何百億と。羨ましいという気持ちもあって、自分も株をやろうかという気分になる。働かないで、お金が欲しい。
でも、やっかみ半分、いや9割なのは分かって、憧れないなと思う。人生の匂いがしないと思う。死ぬほど生きている、とは言えないと思う。僕は、死ぬほど生きてやると思う。だから、違うことに人生の時間を使おうと思う。

死ぬまで、あと何分あるのだろう。まったくもう時間を無駄にして、本当に日記らしく書いてしまった。そうそう、実は、麻雀の話と株の話はつながっているのだが、人間の星座が描かれているのだが、そのルートを仔細に追っていくのも面白いのだが、ここではよそう。僕はもう、疲れてしまったから。

ブログ「いらけれ」

1月20日に、2019年一回目の「デモクラシーCafe@東村山」に参加してきました。(会のブログはこちら。掲載されている写真の自分が、思っているより太っていてビックリした。)一回目ということで、新年明けましておめでとうございます、という挨拶をしたり。しかし、今回も人数の関係で断った方もいたということで、ずっと参加し続けていいのか、まだ参加したことがないという人に、自分の席を譲りたいという思いもあるので……悩んでしまいますね。

やっぱり、新しい会を自分で立ち上げるべきなのでしょうか。僕としては、月にもう一回ぐらい、このような機会があると嬉しいなという思いもありますし。姉妹会として、例えば土曜日に開催すれば、日曜日は仕事っていう人でも参加できますし。真剣に考えてみようかなと思います。

今回のテーマは「なにが対話をはばんでいるの?」ということでスタート。前提となる「対話」という言葉一つとっても、会話を重ねるうちに様々な意見が出てきて、やはり、人それぞれに捉え方が違うんだなあと、その考え方の差異について、興味深いなあと思っていました。もちろん僕は、LIBROの「対話」をイメージしながら、その場に座っていました。「心で見て聞いて そして対話」。

これは、私の考えですが、自分にとって"どうでもいいこと"を話題としている間は、その言葉のやり取りは、対話とは呼ばれないのではないでしょうか。そして例えば、自分にとって重要な、政治的な話題について、ある一つの立場を表明しながら会話するということは、実はかなりセンシティブな行為であるはずです。つまり、自分にとって重要な事柄について、おざなりではない考えを、心の内から話し合うことが対話であり、それは、ある面では心のやり取りとも言える。

私たちの対話が、「時間がない」といった環境的な要因以外で阻まれているとすれば、そのほとんどは、おそらく人間関係によるものでしょう。日常生活の中で付き合う相手、知人と表面上うまくやるだけなら、対話は必要ないはずです。なぜなら、意見や思想の違いで言い争いになったり、不快な思いをしたりする可能性があるのだから。だから私たちは、基本的に対話をしません。むしろ、積極的に避けている人もいるでしょう。

対話という行為は、誰かとより深く関係することを望むという愛の行為でありながら、対話相手の思考と思想を理解し、自分との違いを理解し、自分を客観視して内省するための理知的な行為でもあるはずで、愛だけでは暮らしていけないけれど、理性だけでは物足りない私たちという存在を満たす、とても人間らしい行為だと思います。だから、誰もが対話をしたいと思うことと、そして、対話を成立させることは、人間という生き物にとって、非常に大切なことであるはずです。では、そのためにどうするか、というのが、これからの課題ですね。

会の後には、私が誘って(!)、ちょっとだけ延長戦へ。そういうのが一番できない、引っ込み思案な人間だったので、少しは成長したのかなと思いました。はい。会の中で言えなかったことや、関係ない話もして楽しかったです。

来月も予約していますので、また延長戦まで行けたらなーと思いながら、すっかり暗くなった街を帰りました。