エイロネイア

ブログ「いらけれ」

小説に出てくる「僕」は僕ではないし、「あなた」や「君」も僕ではない。しかし、その「僕」や「あなた」、「君」が僕とすり替わる瞬間(それは大雑把な認識能力しか持たない脳のエラー、愛が生まれるメカニズムと同じ取り違えのようなもの)に、事故のような自己の更新の可能性を見ているから、僕は小説を読んでいる。小説を考えるうちに、小説の側からものを考えるようになっている。

小説を読むと、心の声がその文体になったりしますよね。え、しないって?村上春樹の『1Q84』を読んだ高校生時代の僕は、村上春樹風に描写された所沢駅のホームに立ってましたけどねえ……やっぱり変かな。

僕は真面目だから、「"対話"とか本当にいるんか、それ」と疑いつつ、そして「このままならば、いらないのでは?」と思いつつ、対話の会のスタッフをやっているのだ。こう考えるに至った理由は複雑で、個人的なもので、それに面倒だから書かないけれど(個人的な電話でなら、しぶしぶ話さないこともないけれど)。
うまく対話できない≒そこで話されていること、起きていることがほとんど実社会のそれと変わらない、言ってしまえば現実の縮小再生産でしかないという事態を避けるためには、"一人称単数"的な(?)固有性を持ち寄りながら、他者の固有性に出くわした各々が、無意識的に各々の固有性を交換してしまう(「僕」や「私」と、僕や私がすり替わる!)場を作る必要があるのではないだろうか。それこそが"文学的正しさ"……これを"文学的正しさ"と呼んで良いものなのか、僕には判断がつかないけれど。なんてことを、僕は真面目だから考えていた。

それで昨日、僕が生きていたら、『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』という、大江健三郎の小説につけられた長いタイトルが、不意に頭に浮かんだ。そして、読んでもないのになぜ覚えているのだろう、と思った。"ろうたしあなべるりい そうけだちつみまかりつ"って、たしかに口気持ちいい言葉で、繰り返したくなる語感だし、それでかなあ、なんて考えながら、お茶を一口飲んだときに、『伊集院光 日曜日の秘密基地』に大江がゲストで出たときに、この本が宣伝されていたことを、ビビビっと全部思い出した。僕の過去は、僕のなかのそれはそれは奇妙な場所に置いてあって、それがドロっと出てくるんだな、ときどき。

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤