ブログ「いらけれ」

仕事終わりに東京ドームの三塁側でヤクルトファンを謳歌できるほど水道橋に職場があって、しかし仕事は終わらないのである。休憩する暇もなく、じっと手を見る隙もない暮らし。

なんで生きてんだろか。分からなくなりそうだったから昼休みを捻り出して歩くと、すぐに神保町に着いて、通りすがりにブックカフェに入って見る棚に「頭の体操」と「人間失格」が並んでいる。

これまで出会わなかったであろう二人だ。並べちゃいけない感じがする。目に入った"体操"と"失格"が、対義語にさえ思える。

「頭の体操」が呼び起こす微温的な向上心と「人間失格」がイメージさせる前のめりなアンニュイがぶつかっているのだ、私は分からなくなった。

めまいで店を出ると夏さながらの日差しだ。そうだ。私には、体操も失格もいらない生活があったのだ。まあ、これはこれで悪くないか、と思った。

ブログ「いらけれ」

小説の登場人物ががんになり、私は「身体に力が入らない」という震える声を思い出した。私は、その言葉になりきらない声を聞いた瞬間に理解していた。世界は悪い列車で、頼んでもいないのに発車して、それぞれの苦しみに向かって進み続けているということを

仕事が終わって、スーパーの惣菜コーナーで、全部の弁当の中身が土か粘土みたいに見えて、とても困った。食べることを拒否したかった。唐揚げ弁当を買って食べた。暴力を振るっているような、あるいは振るわれているような気分になっていた。

生活が苦しく、人生が苦しく、いずれ訪れる死が苦しいのなら?それでも生きる理由もないのなら、わざわざ生きる意味もないのだから、いつまで生きていられるのだろう。

去った昨日より生き抜く今日よりもマシな明日が、どこにあるのか、私にはまだ分からないでいる。

ブログ「いらけれ」

少し涼しくなってから僕は、月に一度は吉祥寺まで自転車で一時間ぐらいかけて「古書 防破堤」に行くことにする。運動になるし、移動のお金はかからないし、本は手に入るしで、こういう一石三鳥に生きているって感じがする。
ケチで貧乏人(最悪!)だから、買う本に悩んで一時間ぐらいいる迷惑な客で申し訳ないのだけれど、そのおかげで、小島信夫の小説論とか大澤真幸と國分功一郎の対談本とか、知らなかった本を買えた。

「こんなの、誰が読むんだろう」というような本を棚から抜き出して、颯爽とレジへ向かう知らん人に興味と憧れを持っていたら、いつの間にか僕が知らん人になっている。なり方があって、それは自分なりの課題を見つけて、そのことについて知りたいとか分かりたいと思う、というものだった。だって、自分なりの課題を深く理解するためのヒントは、たいていベストセラーには書かれていない。人間はつまるところそれぞれに特殊な存在で、悲しいほどに違うから、自分なりの課題も別々で、誰が読むのか分からない=自分が読むしかない本を読むように追い込まれる。

悲しいほどの違いを手に入れたときに、やっと人生が始まるのだと繰り返し言っているのは、それまではあなたはあなたでありながら他の誰かでもあり、それゆえ誰でもないからだ。「新しいあなたらしい道を探し手に入れろ生きる証」ってLIBROも言っていた。

他者の基準に、社会で流行りの基準に合わせて生きて、そのなかで受ける言葉で話すという処し方はあって、でもそれでは絶対的に駄目なんだ、ということを分からざるをえなかった一年は、とても苦しかった。僕は、よく生きたなと思った。一見正しそうで優しそうな、でも本当は自分がよく見られたいがためのおためごかしは、いつかどこかで裏返って、最後には人を深く傷つける。僕は独りで、僕なりの課題に向き合おうと思った。この独りの先にしか、誰かを救う言葉はないと思ったから、単数が複数になるまでの、これは闘いだ。

ブログ「いらけれ」

そいつの話した理想や希望が綺麗事で、人を変えるような力を持たないどころか、上辺を取り繕うだけのshitだったということを、そいつ自身の終わっている振る舞いで証明しているような偽善こそが撃つべき対象だった。

人生の底で、私は人生の課題を見つけ、それは偽物の言葉ではない本当に人を救う言葉で、言説で人を救うことだった。

課題を見つけた人間は、不幸な偽りの人間よりも幸福なのだろう。幸福なふりをできてしまう偽りの人間は、不幸に立ち向かえず、死ぬまで不幸なのだから。生きるとは思うことであり、奮闘することであり、立ち向かうことなのだろう。人生に立ち向かわないかぎり、人生は始まらないのだから。