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それが、誰の目にも映ることのなかった木だ。隣の木々とは一メートルほど離れている。もちろん隣の木々も誰にも見られたことはなかった。見上げても先端が見えないほどの高さと、抱き着いても手を回せないほどの太さだった。先週からの急な寒さのせいだ、足元は落葉で地面が見えない。
小さな鳥が一羽やってきて、枝にとまった。誰も見ていなかったから鳥は、それから十年そこにいて、飛び立つ気配すら見せない。鳥の目には、他の鳥の姿は見えなかった。歌は聞こえていたけれど、どこからか分からなかった。
小さな虫が二匹やってきて、幹の表面にとても小さな穴をあけた。虫には、それだけができた。一匹は他の虫に食われ、もう一匹はそれを虫なりに感じていた。虫にとって世界は、絶えず送られてくる電波のようなものだ、それを全身で捉えていた。
もう一匹の虫が死んで、その後、鳥も死んだ。
鳥が死んだまさにそのとき、地球の裏側の音楽家は新しい曲を作った。それは早すぎも遅すぎもせず、静かすぎでも派手すぎでもなかった。死の厳かさをまとった曲だったが、音楽家がその曲を発表することはなかった。それが、誰にも聞かれることのなかった曲だ。もし、その曲が世界にもたらされていたら、音楽家は大金持ちになっていただろうに。
音楽家が飼っていた犬は、世界を見ることをしなかったがゆえに、音とにおいの世界を生きた。犬はそれでとても幸福だったので、それでよかった。犬はその幸福を、全身を使って表現し続けていたが、音楽家は生涯気が付くことはなかったけれど、犬も音楽家も幸福だったので、それでよかったのだろう。
その警察官は、音楽家の屋敷の前の並木道をいつも通っていたが、それは、警察官の巡回ルートだったからではなかった。その日も警察官は、並木道を車で運転しながら、考え事をしていた。もし、地球の裏側に誰も知らない木があったらと。警察官は知らなかったけれど、警察官が考えていた木は、世界中から顧みられることのない事実として、確かにあった。