漕がないと進まない
漕がないと進まないので自転車は、ずっと足を動かしていたのだと思い出させてくれる疲労に負けて、布団に寝転がりながら、今日のことは自分の意思で思い出している。
涼しいというか、もう寒いだ。好きな文芸誌の『ことばと』の最新版が出たから「古書 防破堤」に向かっている僕の、ハンドルを握る指先から冷えていくのが、まさしく冬だ。銀杏並木の黄金で午後2時なのに夕暮れみたいだと思ったり、MVが公開されたばかりのBUGY CRAXONE「こわい話」は最高だったなと思ったり、好きな古本屋で好きな本を買うという小さな応援は、嫌いな世界に対抗する小さな運動でもあるのだろうと思ったりした。
もう一度扉を開けると、ほとんど夜だ。「ことばと戦争」と、迷って買ったアガンベン『開かれ』を片手に、これを読む必要のある人生ってなんだろうと疑問に思う。気づいたら、そんな人生になっている自分に自分が一番驚いている。もっと違う生き物だったはずの子どもの頃を思い出してみても、思い浮かぶのは出来事のあらましばかりで、その時の思ったはずの何かは思い出せない。
「思い」が思い出せないほどに、幼い僕から遠く離れた大人として、「こどもてつがく」に関わり始めた自分にもびっくりしている。正直意味が分からない、なんだこれと思いながら、毎月毎月小学生たちにもみくちゃにされたりしている。この形容しがたい特殊な一生で、それでも頑張ろうと思えているのは、子どものための哲学対話という営みを知ったときに「これだと思った」という、とても変な……いや特殊な人と出会ったからだ。
興味を持って話を聞いてみると、なんでもその人は保育者として働いているプロで、学生時代から教育について勉強や研究をしてきたという。自主的にゼミを開いたりもしていたらしい。教育について熱っぽく語る姿を見ながら僕は、ああこの人もこの人なりの課題を探求している、つまり生きる証を手に入れている人なんだなと思った。めっちゃ変だけど。
僕はきっと、出会ったと同時に出会われたのだと思う。なぜなら僕も「人と人とは、いかにして関わり合うべきか?」という命題を、独りきりでずっと考えてきた変な人だったからで、最近ではすっかり仲良くなって、スタッフとして一緒に会を運営するばかりか飲みに行くなどし、哲学やら対話やら思考やら人生やらをテーマに激論を交わしたり……はしていないが、人生かけて考えてきたことを伝えたり、受け取ったりする語り合いはとても楽しく、この人に出会われてよかったなと本気で思った。
誰かを救う言葉はまだ見つかっていないけれど、僕を救う言葉は見つけた。自分のために始めたはずの、独りきりの闘いこそが、しかし、いつか必ず誰かの役に立つのだ。だから僕は、去っていった昨日よりも、なんとか生き抜く今日よりも、もっとずっとマシな明日が、きっと来るよと教えてあげたい。僕をもみくちゃにする子どもたちと、過去の自分に。
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