ソクラテス的な何か
終点の駅のホームから階段を下りて外に出ると広場があって、向かいのビルには大きなモニターが設置されている。画面の端を流れる文字たちは、この列島を襲う酷暑を伝えているがそれは添え物で、この列島に暮らす多くの人から愛されているシンガーソングライターの映像と音楽がメインだ。皆が好きだからって、僕も好きでいる必要はなく、ワイヤレスイヤホンからは、この列島に生きている人のほとんどが知らない、すでに解散してしまったバンドの曲が流れていた。僕が好きなこの曲を、多くの人が好きではない、あるいは嫌っていたとして、だからなんだという気分が充ちる。多くの人が好きなあの曲を、好きになれない僕のための曲があるというだけだ。この世の大部分は「破れ鍋に綴じ蓋」でできているのであって、だから、不透明でゼリー状の不安ばかりを書きつけたこの日記も、それを書いている僕が、それでもまだ生きているという事実が、誰かを救うのかもしれないけれど、そんな不安を感じない人として生きてみたかった。そちらの方が確実に幸福だったのだから、あらゆる不幸のなかから真の意味を見出す人生の解釈学を、絶対に信じないという心構えで生きているとはいえ、過去は過去でもうここにはないし、使えるものは使うというもったいない精神のおかげで今日があって、明日があって、そうやって生きて、はじめて日記が書けるのだった。
基本的に人間というものは、異質な他者の存在を知りたくも認めたくもないのだろうし、自分が間違っていると考えたくも、他人の悩みに身につまされたくもないのだろう、と思う。もちろん、自分にもそういうところはあって、だから、いろんな人が集まって、話し合って、分かり合うなんて無理無理、をスタート地点にするしかない。そもそも、私たちが対話を、誰かにさせられるものではなく、自分でするものだと考えるのであれば、私たちはソクラテスではなく、ソクラテスに無知を悟らされた側の人間になることを引き受けなければならないのに、そうなろうという人は少ない。いや違う、そうか、ソクラテス的な何かが足りないから上手くいかないのか……?ソクラテス的な何かが導入されれば、皆で対話できるようになるのか……?え、ソクラテス的な何かって……なんだ?
ディスカッション
コメント一覧
話せばわかる、って言葉が象徴的で、聞けばわかるじゃないんだよね。
そのわかる側は、あくまで他者で、話によって自分がわからせられる事を想定すらしてないって言う。
世界には、自らわかる人間と、その人間から話されてわかる人間の二種類が居て、そして多くは前者だと思っている後者なのかもしれない。
コメントありがとうございます!
おかげさまで、この話の続きを思いついたので、次の記事で書こうと思います。
うふふ、お楽しみに。