考路

ブログ「いらけれ」

考える前に日が暮れていた。道の真ん中を歩いていた。これしかないと思っている間は、それしかなかった。過去の自分も未来の自分も当てにならないのなら、それでもなにかを変えたいと思うのであれば、今しかないだろう。

夕暮れに考え事をしていた。訂正される記憶について。過去は評価次第なので、あの時の私は幸せだったけれど、それは勘違い、あるいは間違いだったという風に上書きされることなんてざらだ。実際に、ストックホルム症候群のようなあり方で、マインドコントロールの手付きで、精神が支配されていたというパターンもあるだろう。でも、そんな状況でなかったとしても、その幸福な時間が遠くなって、そこにあったはずの実感が失われてしまえば、それが本物だったかどうかなんて、もう誰にも分からなくなってしまうし、目前の幸せに隠されていた苦みや痛みが、認識されていなかった辛さや傷が、あとから発見されることもある。
このようにして過去が、訂正されてしまう未来に開かれ続けている限りにおいて、今の私のこの幸福を、どうやって信じればよいというのだろう、というのが思索の中心点だった。不幸に悩む私にとって、この不幸がいつか不幸でなくなるかもしれないというのは幸福なことだが、それ以上に、いつか私の元に幸福が訪れたとしても、その幸福が幸福でなくなってしまうかもしれないというのは、とても不幸なことだ。

野球を横目にスマートフォンを触っていて、楽天スーパーポイントスクリーンという広告を見たらポイントが貯まるアプリに稲川淳二の顔写真があって、ホラー映画とかもそうだけど、お金を払って怖くなりたいというのは、どういう心の動きなんだろう、と思う。本物ではない作られた恐怖は、むしろ身の安全を確認させてくれるのだろうか。お化け屋敷なんかもその一つで、そこは叫ぶべき場所として存在していて、叫ぶべき場所で叫ぶのはストレス発散になるのだろうと理解できたとして、では、心霊スポットに行くのはなぜだ。心霊スポットで恐怖を感じたとしたら、それは間違いなく"本物"の仕業なわけで、「幽霊なんているわけないじゃん」と言うのであれば、行かなければいいじゃん?
人々はなぜ心霊スポットに行くのか、心霊スポットがあるにもかかわらず、なぜお化け屋敷に行くのか、そもそも、なぜお化け屋敷に行くのか。などなど、これらの人類が考えなければならない問題について、ご意見をお待ちしております。

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤