2019年1月「デモクラシーCafe@東村山」

ブログ「いらけれ」

1月20日に、2019年一回目の「デモクラシーCafe@東村山」に参加してきました。(会のブログはこちら。掲載されている写真の自分が、思っているより太っていてビックリした。)一回目ということで、新年明けましておめでとうございます、という挨拶をしたり。しかし、今回も人数の関係で断った方もいたということで、ずっと参加し続けていいのか、まだ参加したことがないという人に、自分の席を譲りたいという思いもあるので……悩んでしまいますね。

やっぱり、新しい会を自分で立ち上げるべきなのでしょうか。僕としては、月にもう一回ぐらい、このような機会があると嬉しいなという思いもありますし。姉妹会として、例えば土曜日に開催すれば、日曜日は仕事っていう人でも参加できますし。真剣に考えてみようかなと思います。

今回のテーマは「なにが対話をはばんでいるの?」ということでスタート。前提となる「対話」という言葉一つとっても、会話を重ねるうちに様々な意見が出てきて、やはり、人それぞれに捉え方が違うんだなあと、その考え方の差異について、興味深いなあと思っていました。もちろん僕は、LIBROの「対話」をイメージしながら、その場に座っていました。「心で見て聞いて そして対話」。

これは、私の考えですが、自分にとって"どうでもいいこと"を話題としている間は、その言葉のやり取りは、対話とは呼ばれないのではないでしょうか。そして例えば、自分にとって重要な、政治的な話題について、ある一つの立場を表明しながら会話するということは、実はかなりセンシティブな行為であるはずです。つまり、自分にとって重要な事柄について、おざなりではない考えを、心の内から話し合うことが対話であり、それは、ある面では心のやり取りとも言える。

私たちの対話が、「時間がない」といった環境的な要因以外で阻まれているとすれば、そのほとんどは、おそらく人間関係によるものでしょう。日常生活の中で付き合う相手、知人と表面上うまくやるだけなら、対話は必要ないはずです。なぜなら、意見や思想の違いで言い争いになったり、不快な思いをしたりする可能性があるのだから。だから私たちは、基本的に対話をしません。むしろ、積極的に避けている人もいるでしょう。

対話という行為は、誰かとより深く関係することを望むという愛の行為でありながら、対話相手の思考と思想を理解し、自分との違いを理解し、自分を客観視して内省するための理知的な行為でもあるはずで、愛だけでは暮らしていけないけれど、理性だけでは物足りない私たちという存在を満たす、とても人間らしい行為だと思います。だから、誰もが対話をしたいと思うことと、そして、対話を成立させることは、人間という生き物にとって、非常に大切なことであるはずです。では、そのためにどうするか、というのが、これからの課題ですね。

会の後には、私が誘って(!)、ちょっとだけ延長戦へ。そういうのが一番できない、引っ込み思案な人間だったので、少しは成長したのかなと思いました。はい。会の中で言えなかったことや、関係ない話もして楽しかったです。

来月も予約していますので、また延長戦まで行けたらなーと思いながら、すっかり暗くなった街を帰りました。

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤