ブログ「いらけれ」

 いつでも電話できるテクノロジーをポケットに入れたのは、僕について言えば高校生になったその瞬間で、まだガラケーという言葉がなかったのは、スマホの発明を世界が待っていたからだ。初めて持ったケータイは紺に近い深い青で、少しだけキラキラするような塗装がされていて、折りたたみ式で、液晶の裏側のボディの真ん中に大きなレンズが付いている。カメラを使うことはほとんどなかったから、いくつものケータイを経由して、現在のスマホのフォルダーの深層に残っている校舎で撮られた画像はたったの一枚で、久々に思い出したけれど、校舎の二階には自動販売機が設置されていて、その前には小さな丸テーブルがあって、男子二人が肘をつき、組み合った手を男性教師の両手が包み込んでいる。

ブログ「いらけれ」

※この小説は、2020年1月中に執筆されたものである。ゆえに、小説内で起こる出来事は、現実と対応するものではないということを、予めお断りしておく。

 本当ならばそれは、単なる点の集合に過ぎないはずである。長野から東京へ向かう新幹線は、いくつものトンネルを高速で走り抜け、その度に私は、鼓膜の軋みを感じていた。

 ニュースは常に過去だ。たとえそれが、来年に開催されるオリンピックを話題にしていたとしても、かつて決められたことや考えられたことしか、ニュースという形で伝えられることはないのだ。想定されていた予算を大幅に超過してしまいそうだ、それは確かに未来を予測する言葉だが、実際に起きているのは、それを誰かが予測したという出来事である。
 あの電光掲示板に私の額をつけることができれば、とても悲惨な事件の報道を知らずに済んだのだろうか。あるいは、明滅が見えないほどに遠く離れてしまえば。小さな点たちが、あるいは大きな一つの点が、距離の適切さによって、真の姿を表す。ランダムではなく、プログラムされた光だから、そうなる。私たちの頭が、点滅する光を左に向かって流れる文字として認識する。世界とは認識の集積であり、私はそれを止められない。認識していること自体の不思議を発見すると、途端に文字だったものがバラバラに解けていき、めまいのような感覚が襲ってくる。認識を続けていたそれまでの私が、理解の及ばない他人のように遠くなる。
 そのような自己からの離脱に、うってつけの位置に座ってしまっていた私は目を閉じて、いたずらを完遂した後の子どものように素早く、偉大な父を思わせるこの世界から身を隠した。

 子どもたちは皆遊ぶ。しかし、遊ぶものが皆子どもという訳ではない。

「いつのを見ているの」
 彼女の短い言葉には、回顧を繰り返してばかりいる私を非難するニュアンスが宿っていた。お構いなしに彼は、プロジェクターから伸びる光のなかで居間を走り回っている。光の側からは、ブルーライトカットの機能が付いた眼鏡によって、私の目元を窺うことはできなかっただろう。告白するが、私は泣いていた。
 長い時間が経ってしまった。そして、環境は大きく変化してしまった。パンデミックが起きたのだ。パンデミックが起きたということは事後的に発見された。最中では分からなかった。大規模な祭りの内側では、誰もが自身のあるべき場所を見失う。そうした困難に見舞われてしまった、それは極東の列島を襲う嵐のような混乱だった。
 振り返れば道はできている。しかし、掻き分けている間、前にあるのは草むらだ。すべての道は、草むらを道に変える努力の上に作られたものだ。麓から見れば山頂は遥か彼方。マス目だけの原稿用紙が、あの分厚い小説に生まれ変わるのだ。0文字目には登場人物たちの影も形もなかったのだから、やはり驚くべきことなのだろう。書かれた小説によって私は、小説家と名乗ることが許された。私は指を動かし続けることによって生きるようになった。挨拶しなければいけないお偉方だらけ授賞式に彼女は居た。しかし、私たちは出会わなかった。出会わなければならなかった私たちが結婚したのは、もっともっと後になってからだった。
 彼に名前を付けたのは彼女だ。彼女の母親の名前から一字を頂いたという。生まれたばかりの頃はすぐに壊れてしまいそうで、バカラのグラスを扱う時のような繊細さが求められたが、少しずつ丈夫さを身に付けていった。成長する彼を、自宅で仕事をする私は近くで観察できたから小説に書いた。「子どもたちは皆遊ぶ」というタイトルで本になった。これは、当時の私にしてはよく売れた。暮らしに困らなくなったとは言えないが、鍋の肉が豚から牛になった。
 居間の真ん中には大きな机があって、その周りを走った。勢いあまって大黒柱にぶつかった。その姿を見ていた姉たちが撮った写真が、時代が付いて黄色くなったアルバムに収められている。額の真ん中に青あざを作った私は、私ではないみたいだった。しかし、写真に修正など施されているわけがないのだから、それは紛れもない私だった。二足歩行を覚えてから数年は、私も紛れもなく私だった。その同一性に疑問など持たなかった。初めて自転車に乗った私も私だった。小豆色のアパートに備え付けられた25mプールほどの大きさの駐車場だ。石ころだらけで、白に近い灰色の地面の上を転ばずに進む距離は少しずつ伸び、そのままを保てるようになった。しかし、転ぶことによって止まっていたから、自分の意志で止まることはできなかったようで、彼は夕方になっても走り続けていた。車止めに腰掛けた私は、少しだけ意地悪な気持ちでそれを見続けていた。その時の彼にとっての彼も、紛れもない彼だったのだろうか。
 私が私との乖離を自覚したのは桜が咲いて一年生になった頃、学区というもので街に暮らす小さな仲間たちと離れ離れになり、知らない子どもたちによって掃除用具入れに詰め込まれてからだ。チラシの裏に「死ね」という言葉をどれだけ書いても人は死なないと気が付いた私は、彼らに取り入るための行動を始めた。それは私の望みではなかった。だから私は、物語の登場人物になった。あるいはゲームのキャラクターになって、私は私を操作した。そして、教室内の相関図を操作し始めたのである。シェイクスピアは知らなかったけれど、一人前のシナリオライターを気取っていた。私の能力は、そのようにして育まれていったのだろう。
 彼の能力は、パンデミックによって育まれることになった。結果的にそうなった。大勢の人が死ねば、事の重大性は増す。それなのに何故か、一つ一つの重みが感じられなくなる。小説のなかの出来事のようだ。人々の死を思って人々の名前を並べてみても、日用品をまとめ買いしたときのレシートのようだ。紙はとても薄く、そして軽い。家族全員で白いベッドの周りを囲んで、祖父の心電図が一定になる瞬間に立ち会うような悲劇性が、すべての死にあったはずなのに、それが重なりあって山とはならない。何度見ても、紙の上のインクでしかない。しかし、彼は彼なりにニュースを受け止めたのだろう。彼の目になって、世界を見てみたいと思う。彼が青春を迎える前には、私が読み終えたノンフィクション本を渡したり、NHK―BSのドキュメンタリーを一緒に見たりした。私の目になったつもりで、世界を見てほしかった。それが責任だ、などと大きなことは言えないと思っていた。ただ、世界の様相を知らずには死なないでほしいと、そう思っていた。
 侍みたいな面構えである。相貌は自然に作られるものではなく構えるものなのだ。あるお笑い芸人は「頑張らないと親に似る」と言った。けだし名言。「親の顔が見てみたいよ」と言ったのは前に座る男だ。とてつもなく大きな地獄か、あるいは果てしない遠回りだったのかもしれない、それは。「警察の世話にだけはなるな」と言ったのは私の父親だ。一体どこで何を間違ったのか、いや、一切が合っていたのかもしれない。この場所では、異議申し立てが犯罪だっただけだ。私の自由は死ななかったし、小さな部屋に閉じ込められれば、小さな自由を謳歌した。身体を拘束されれば、小さな脳みそが宇宙の始まりから終わりまでを上演した。宇宙の中にある脳が、宇宙よりも大きな想像を創造する。そうそう起きないような奇跡が起きるのが世界だ。管理された生活の中で私は、鉄格子に味噌汁をかけて錆びさせるようなやんちゃはしなかった。孤独に任せて、許可された小説を読んだ。読むことが、与えられた白い紙に新たな物語を書きつけることにつながった。それは、あまりにも当然の流れだった。人生は小説のように、どこへ転がっていくか分からないものだ。勝手に伸びていった文章。少し見ない間に大きくなる甥っ子と一緒。他にすることがない暮らしならばやるしかないっしょ、という意気込みで作り上げた一作が、彼を生み出したと言っても過言ではないだろう。上京する日の彼は、まるであの男のような顔つきだった。つまり、侍みたいな面構えだった。鏡で見る親の顔には一つも似ていなかったから、とても頑張ったのだろうと思った。辞書に載っている言葉を使うならば、しみじみと。

 東京駅で乗り換えた在来線のなかで夕日を見た。今日がリタイアしていく東京。電車は失速していく。荷物を抱えて階段を上った。改札を抜けて落ち合った。駅前にあるコーヒーショップで向かい合った。

「お母さんが心配してたよ。忙しくしてるんだろうって。部屋が汚れてるに違いないって。そうだ、唐辛子持ってきたんだよ。何でって、送るより手間じゃないから。あ、ありがとう」
「ありがとうございます」
「一緒に暮らしていた時は、こうして喋ったりしなかったのになあ。最近は、ユーチューブで昔の『タモリ俱楽部』ばっかり見てるよ」
「聞いてないよ。冷めるよ」と言って指に差されたブラックコーヒーが光を反射している。
「他に趣味もないし、付き合いもないしなあ。毎日図書館に通っていると、いつも同じ顔を見ることになって、変な連帯感はあるけどね」
「そうですか」
振動したスマートフォンに目を落としてからは、適当な相槌だけが続いた。
「そういえば田中君が結婚するって、お母さんが。お前仲良かったよな」
「知ってる」
「彼女とは」目と目が合う。
「お前ぐらいの歳の頃はまだ小説を書き始める前だったから、結婚も何もなかったなあ」
「書き始める前ってそれ、警察の世話になってた頃だろ。よく言うよ」
「結婚は好きにしたらいいけど、ノーベル賞は早くもらってもらわないと。世界の救世主様なんだから、私の目が黒い内に」
「あなたがノーベル文学賞をもらう方が先でしょう」
「それは無理」と、コーヒーを吹き出すような素振りを見せた後に言う。
「来月から、また研究でアメリカ」
「うん。身体にだけは気を付けろよ」
 短い時間だったが、扉の外には冷たい夜が訪れていた。憂いなく遊んでいた子どもは大きな悲しみを知り、大人物にはなれていないかもしれないが、それなりの大人になった、なれたはずだと胸を張って、私は偉大な父と別れた。