ブログ「いらけれ」

昼間には、アンケートを答えに、銀座まで行った。会場のビルの入り口が分からなくて、周りをグルグル回ったりして、時間に間に合わないかと焦った。聞いていた金曜シバハマラジオが、全然耳に入ってこないぐらい焦った。

書くなと言われている以上、詳しくは書けないが、夜の「東村山土曜寄席」の足しにはなるぐらいの、少額の謝礼をもらった。帰り、おばさんが「非常に気分を害しました」と、何についてかは分からなかったが、主催者側にクレームをつけていた。スタッフの人が、エレベーター前までお見送りをして、頭を下げていたから、僕は脇の階段で降りた。

気分を害されることは少なくない。リアルライフには、いろんなことがある。でも僕は、そういう時は黙って、自分が我慢してしまう。文句を言ったことって、ほとんどないんじゃないだろうか。怒れないということは、良いことだけじゃない。怒るべきときに、怒れる人になりたいと、改めて思った。

一旦家に帰るその前に、西友で特盛と書かれたお弁当を買う。申し訳程度のコールスローサラダ。ラジオの、中学校に行けていないという悩み相談に、僕が何も思わないわけはなかった。人生の残酷さ、苦しさに比べて、良いことはあまりに少ないから、自分で楽しむ方法を見つけていくしかないんだろうな、と思う。

CSのチャンネルでは、人力舎の芸人たちが「バカ爆走」というライブの思い出話をする番組が流れている。長細い揚げ物と、丸っこい揚げ物は、どちらも豚肉だった。パーケンが出てきて、驚く。別に、出てはいけないなんて決まりはないのだが、テレビ業界の自主規制を、一視聴者の僕が、先回りして内面化している。

2-300は入っているようだった。だが、ホールは大きく、後ろの席は空いていた。なんで指定席だったんだろう。やはり、年齢的にはかなりのアウェイだった。「観賞マナー」はサイアクだった。メチャクチャしゃべるし。オチ、先に言ったりするし。でも、あの「黙って真剣に聞く」という方がやりすぎなのかもしれない。こういうのもいいんじゃないかな。楽しむために、落語を聞いているわけだし。そこまで真面目になる必要はないのではないだろうか。

「笑顔あふれるまち 東村山土曜寄席 in 中央」

春風亭かけ橋「道具屋」
春風亭昇々「鈴ヶ森」
神田松鯉「赤垣源蔵徳利の別れ」
~中入り~
桂竹千代「親子酒」
山上兄弟
春風亭柳橋「お見立て」

かけ橋さんは、前座とは思えない高座だったので、ググって「へーやっぱり」って思った。前座時代に、「東村山土曜寄席 in 富士見公民館」で見た竹千代さん、いつもラジオ聞いてます昇々さんの、出る順番を入れ替えた二人。どちらも、枕のパッケージ感がすごい。ひどい営業ネタとか、師匠いじりの鉄板感とか。実際、爆笑が起きていたし。でも、「二ツ目の大変さ」みたいなのも感じた。ライバルが多い中で、古典をやるにしても、自分の色を出さなきゃいけないんだろうなと。その試行錯誤の時期でもあるんだろうし。山上兄弟は、自分たちで「大きくなったでしょう」と言っていて、面白かった。アニメ『W’z《ウィズ》』で声優やってるって宣伝してたよ。マジックって、目の前でみると、テレビで見るよりビックリするよね。

松鯉先生は素晴らしかった。聞きながら、この時間が終わらなければいいのにって思った。あれだけうるさかったおじさん、おばさんも黙った。第一声からずっと続く心地よさ。無知で、分からない言葉も多かったけれど、死ぬほど幸福だった。すごかった。
トリの柳橋師匠も良くて。トリッキーなことなんて何一つしていないのに、あれだけ面白いなんて。古典の強さと、真打の安心感を感じた。

大満足で公民館を出た。そして、昨日のブログにつながる。

ブログ「いらけれ」


BUGY CRAXONE『たいにーたいにー』Music Video

わるいこと とくにしてないのに かなしいな
大丈夫 そういうことが
わたしたちをつよくすんでしょ?

K駅の近くの駐車場兼駐輪場の、古びた緑の、三階か四階建ての建築物が取り壊されるという情報は、二か月ほど前から知っていた。年が明けると、停めてあった車の姿が、徐々に少なくなって、縞模様のロープが張られるようになった。ある日に前を通ると、防音という文字が大きく書かれた輝きの無い銀色のシートで、すべてが覆われていて、不気味な存在感を放っていた。
明日書くことになるだろう、明日の地域寄席のチケットを電話で予約したら、今日公民館に取りに来てくれということだったので歩いて行って、窓口でそのことを伝えたところ係の人がバタバタしていて、さっき電話したのに、そういうもんかなあと思った帰り道だった。件のシートの向こうで、取り壊しの工事が始まったようだった。それでも大きな音は、隣接する道路にまで漏れていた。僕は、イヤホン越しに聞こえてくる音に、聞き覚えがあった。


「頭痛派」は、どこかで見たことがあるような、ありきたりの物語を、しかし、毎日欠かさず伝える放送局。音楽とともに始まって、音楽とともに終わる番組などで構成されている。スタッフは一人で、スポンサーも一人。明日には、どんな世界が描かれるのだろうか。それは誰にも分からない。でも、続いていくことだけは決まっているのだ、世界がそうであるように。


中東情勢が緊迫しているとテレビで盛んに報道されていたのは、いつごろだっただろうか。あるいは僕が、テレビを見なくなっただけなのだろうか。過激派によるテロは続いているのだろうが……。今ではすっかりリアリティはなくなって、遠く隔たった地を日常生活の中で思い出すことはなかった。あの防音シートの向こうにある紛争を想像する。幻視する。実感を伴わないほど離れてしまえば、どんな事件でも僕は、空想の種にしかできなかった。
地域寄席が21時に終わって、冷たい空気と大きな月だった。聞いた落語を思い出しながら歩いていていると、あのシートに、大きな隙間ができている。紛争を探してそちらに目を向けたら、驚くほど巨大なトラックの顔が飛び込んできた。昼間には、確かに誰かが、そこで取り壊し工事をしていたのだ。いずれはすべて壊されて、そこも、更地になるのだろうか。


世界は終わってなかった トモフスキー

同じ景色を
眺めていても
昨日までとは
なにもかもが
違って見えるんだ

ブログ「いらけれ」

こうして消されていても、いやむしろ消されていればこそ、なぜか読みたくなってしまうのが人間だ。心の底にある、今そこにある卑しさ。

眠りにつくその直前には、頭の中に宇宙が広がって、僕のとりとめのない考えが、勝手に回っていく、勝手に回っていくと無敵だ、僕の才能は無敵だと、その時だけは思い、この思考を、このまま文字にできれば、何を、どのようにでも書けるだろうと、いや明日にはそうしようと考えて、でもいつもやめる。よす。よすのだ。
実際に、僕は何でも書けるという、そういうモードになるときはあって、だからこそ、そういうときは書かないようにしている。結局は、誰かに影響を与えるために書いているわけで、ときおり「誰かに影響を与えたくない」と公言する表現者を見かけるけれど、それは責任を負わなすぎではないだろうかと僕は思うから、誰かに影響を与えるのならば、最低でも心ぐらいは込めなければ、それは最低だ。だから、手先で書かない。テクニックで書かない。書かないということに心を込める。

こう毎日コントを見ていれば、さすがに設定やプロットの一つや二つ、思いつかないわけがない。しかし、私は人前には出られない。なぜなら、小学校のクラスの発表ですら足が震えるような人間だからだ。しかし、私が人前に出られる身体ではないからといって、別にコントを書いてはいけないなんて、そんな法はない。勝手にやるということ。仕事でもないのに、台本を作ってみたりするような勝手が好きだ。そうやって広げた領域が、自分を大きくしてくれている、ような気がする。

あなたが今週すれ違った、妙に印象に残っているあの犬が、実は、日本で一番根暗な犬なことを、あなたは知らない。あなたが今週みかけた、駐車場を横切ったあの猫が、実は、世界で一番プライドの高い猫であることを、あなたは知る由もない。

なんでだろう。数カ月前にはまったく知らなかったような専門的なこと、もっと言えば、今でも何一つ分かっていないような事柄について、なぜか、どちらがいいとか悪いとか、知った風なことを言える、断定できる人が、たくさん出てくることが不思議だ。手に入る情報がすべてではないこと、そして、今手にしている情報を、自分が真に理解できていないことすら忘れてしまい、自分が審判になれると、解説者になれると勘違いするような馬鹿にだけは、僕はならないと誓った。


EELS – Unhinged – from END TIMES – out now!

You need help, baby, you’ve come unhinged

ブログ「いらけれ」

びっくりすることがあるとすれば、たった数日前のことも、この"ここ"から過ぎてしまえば、その手触りがほとんどなくなってしまうということで、だから、あったことをちぼちぼと思い出していこうと思う。

あの日は、その前々日に放送されていた『ラジオ寄席』を聞きながら出発して、でも、途中で変えたんだった。これから落語を聞くというのに、さすがに違うかなと思って。行きの電車で見た空は真っ青で、気を良くしていたのだが、山手線が混んでいてガッカリする。自分もその中の一人なのに、東京一極集中はいけないな、などと考えていた。

そうだ、それで聞いていたのは『文学賞メッタ斬り!』のスペシャル番組で、芥川賞・直木賞候補の解説と、受賞者の予想などを楽しんでいた。これまでの候補作どころか、受賞作だってほとんど読んでいないのに、ずっと『メッタ斬り!』を読んだり、聞いたりしているから、さまざまな作家や、小説の内容を知っている自分。そういう自分が相対化されていく。しかしまあ、手品よりも、手品の種明かしが好きだったり、批評が好きだったりというのは、昔からなのだから、そういう性分なのだろう。

ユーロ近くの家系ラーメン屋に入る。その時点でお客さんが一人で、その人も、僕とすれ違いで出ていってしまった。食べている終盤に、一人は入ってきたけれども、つまり、ほとんどの時間で貸し切り状態だった。以前は、お客さん普通に入っていた気がするけどなあ。なんか変わったんかなあ。無料で付いてくるご飯まで、しっかり食べた。

二階では、会員になる手続きができない。三階に行って、昨年の八月で切れていた会員証を更新する。また通うという、気持ちの表れなのだろうか。本当に通うことができれば、間違いなく得になるけれども、でも、行くことがなくなって損になっても、それがユーロスペースのためになるのならば、それはそれでいいかと、柄にもないことを思った。

おさん師匠は、一人遊びをしている姿がよく似合う。馬石師匠が「ダラダラ」と表現されていた、あの四季についての「こいつぁ極楽だ」みたいな滑り出しから、一人で爆笑した話を経由して、全部一人でやる「二階ぞめき」まで、ずっと幸せだった。

馬石師匠はさすが。(客が使う言葉じゃないことは承知の上で)渋谷らくごにしては、客が非常に「重かった」、それは何十回とこの会場で見ている僕が、これまでに経験したことがないくらいだった(前説にタツオ氏が登場しても、拍手がなかったし)が、しっかりと大きな反応を引き出していたから。落語を知らない友達にすすめるならば、この人だろうというぐらい、間違いのない人だ。

興味深かったのは「妾馬」(最後、馬石師匠は「八五郎出世の一席」って言ってたと思うけど)の、あの殿様に語りかける印象的な場面が、かなりアッサリ演じられていたと、そのように感じたこと。俗っぽくしない、くどくしないという美学なのかなあ、というようなことを考えながら、帰りの電車はもっと混んでいた。

一駅前で降りて、歩く。普段降りない駅の周りは、車窓からでは見えていない部分がいっぱいあって、ああ、石材店が駐輪場になっているんだな、とか、いろんなことに気づく。結局、『ラジオ寄席』を聞いている。通り道である墓場は真っ暗。目が利かない。向こうから人らしき影がやってきて、僕が左に避けたら左に、右に避けたら右に来たから、舗装されているところを出て、木の近くまでこちらが避けたら、すれ違えたけど、あれ、人だったんだろか。今になって、すごく怖くなっている。

このような終わり方をしたら、あなたも眠れなくなったり、夜中にトイレに行けなくなったり、しないだろうか。しないだろうな。