ブログ「いらけれ」

飲み物でも取りにいこうと立ち上がったら、部屋の壁に濃い灰色の虫がいて、近づいてよく見たら、それは天道虫だった。同じ虫でも、ゴキブリだったらそうはしなかっただろうが、ティッシュで優しく捕まえて、窓の外に放した。

世界は分岐して、「併存」しているわけではなかったようだ。なにせ、普段通りのアクセス数に落ち着いてしまったのだから。それでも、別に悲しくはないというのは、決して強がりではない。あなたが読んだかどうかは分からないが、昨日「思い出が向かい側」を書き終わったとき、根拠のない手応えを感じたからだ。
予め書こうと思っていたのは、もっと別のことだった。しかし、目の前の文章を書くことに潜り込んだら、書くという行為に導かれるかのように、新たなイメージが次々と湧いてきた。覚えていたことが驚きであるような記憶が蘇った。
けれども、子どもの頃の思い出を書くことによって、読み手のノスタルジーを喚起しようとするのは、安易な手法であることも分かっている。
家から東村山駅に向かう途中の釣具店は、おそらく道路の拡張計画のために、移転することになった。時代がついた佇まいの店舗に「移転しました」という張り紙がしてあって、僕は、一抹の寂しさを感じていた。数日後、たまたま移転後の釣具店の前を通りかかった。とても綺麗で、おしゃれな店構えだった。
あの「一抹の寂しさ」は、僕の内にある「ノスタルジー欲」が生み出していた。ノスタルジーの切なさは、とても気持ちのいいものだから。物も出来事も、古くなってしまえば、ある美しさを獲得する。今そこに生きている人や、過去そこで苦しんでいた人を置き去りにして。だから、郷愁が作り出す感動には、用心し続けなければならない。

牛乳パック、三ヶ月に一回ぐらい、間違えて逆を開けようとしてしまう。あと、スマホにイヤホンを刺して使っていると、プラグのところがすぐに壊てしまう。「そのままでいいの?」案件だよなあ。なんか解決法がありそうなものだけど。

今日は手応えがなかった。自分でお店をやるんだったら、そこで落語会を開くのもいいな。夢物語すぎて、実現性に乏しい。とりあえずカフェでアルバイトして、どのくらい儲かるものか、感覚を養うべきだろうか。とにかく、ものを知らないってのは罪深くて、無知は失敗への道につながっている。大きなことを一人でやるのも難しいから、グループを作るのもいいって、そもそも「頭痛派」ってそういうコンセプトで、現在メンバーが僕しかいないということは、それは無理だということなのか。なんだろう、これ。現実が動かないから、妄想を書くしかないのか。現実は、どのように動かすのだろう?

ブログ「いらけれ」

用もないのに生きてしまう。金縛りにあったみたいに動けないけれど、それでもまだ、生きてしまう。時間の足音さえ聞こえないというのに。
物を考えると、頭の後ろ側が痛くなる。金曜日は労働があるばかりか、数を数えたくないほど大量のアンケートが送られてくる。あと、一週間の疲れ。
小学生の頃、一緒に階段を降りている友だちの背中を、押したらどうなるだろうと、ふと思った。押してみたくなった。押してしまった。このエピソードにおける僕の役割は、背中を突かれた友だちだ。
そこにある悪との、ある種の取引さえ許さないような、一切のダーティーさを認めないような、あまりに幼稚な考え方は、いずれあなたの首も絞めるのではないだろうか。
手作りホットドッグを噛んだら、魚肉ソーセージだったのでぎょっとした(魚だけに)。(食べさせてもらっている立場だし、なにより美味しかったから)もちろん、文句などあるはずがない。麦茶だと思ってめんつゆを飲んでしまった時の、あの驚きがあっただけだ(そのように間違えたことはない)。
なによりもまず人望がない。友だちがいない。校舎の外にある石のらせん階段で足を切ったあの時のことを思い出す。もしかして、気が付いていなかっただけで、いじめられていたのかな。
上級生の女子が二人、僕の前を降りていた。そのうちの一人に衝突した。「謝りなよ」って言ったもう一人が、僕の足を見て絶句した。運が良いわけはないが、その階段は運良く保健室にもつながっていた。友だちに肩を借りて、何とかたどり着いた保健室の先生も、同じように絶句した鮮血。
痛々しい足の傷は、消毒とガーゼですぐに処置されて、一週間ほどで治ったものの、大きな跡が残った。今の時代なら、保護者を巻き込んだ大騒動になりそうなものだが、二十年前の小学校は加害者に寛容だった。僕も、それでいいと思っていた。後ろには「友だち」しかいなかったわけだし。
ただ、僕が「押された」と主張して、先生が「誰かが押したのか」と尋ねても、犯人が名乗り出なかったことと、見ていたはずの友だちが、何一つ証言してくれなかったことは、とても悲しかった。
この事件が、心にも大きな傷跡を残したのは間違いなくて、それからしばらくは、手すりがないと階段を降りれなかったし(今でも、大きな階段の真ん中とかで、手すりに手が届かないときは、恐る恐る足を踏み出している)、この通りの孤独な人間になってしまった。
黄昏時に、思い出が向かい側でこちらを見ている。「いろんなことがあった」と、涙が出るほど美しい歌が聞こえる。戸惑いのなかにいたら、時が経つのを待つまでもなく、すぐに明日がやってくる。「急がなきゃこのままで止まってもいられないな」。

ブログ「いらけれ」

家にあるカレンダーがさ、家というかトイレなんだけど、世界の名所みたいな写真が載せられているんだけど、7月になったじゃん?それで、写真が新しくなって、世界のどこよりも砂が白いと言われているビーチが写っていて、その場所の名前の下ある説明文には、「4・5月と10・11月がベストシーズン」と書かれていた。素人が「ツッコミ」するの寒いと思ってる僕でも、流石に「7月じゃないんかい」ってツッコんでしまった。写真を見て、「旅行に行こう」と思い立った人でも、7月から手配すれば間に合うという配慮なのだろうか。

ツイッターで、テレビでの問題発言が炎上する度に、ラジオって本当に聞かれてないんだなって思う。ラジオの方がよっぽど酷い発言が多いし、それをきっかけに、番組の聴取をやめてしまうことだって多い。やれ、ポリティカルコレクトネスがどうのこうのと言われているけれど、たまたま厳しすぎる事例が目に付いているだけで、普通に暮らしていれば、信じられない差別とぶつかることとかざらだし、世界はまだまだ"遅れている"と、僕はそう思うね。

やっぱこう、人として綻んでいるから、括弧付き普通の人々によって運営されている括弧付きまっとうな世界に対する不満で溢れていて、それでヒップホップとかがやっぱ好きになったし、ティーンの頃からずっと、大神「大怪我」とか聞いてしまうと、血液が沸騰する感じがあって、それは今もそう。「知ったふりしろ」!

お風呂は温かかったが、目薬はひんやりとしている。天井のライトが点滅している。アプリで当たったファミマの鶏つくね串、おいしかったな。串を抜いて、卵かけご飯に乗せるという工夫も良かった。違法アップロードだし、ユーチューブで関連動画に上がっている『タモリ倶楽部』を見てしまうのをやめたい。でも、ユーチューブで見る『タモリ倶楽部』が、サイズ的に丁度いい。ユーチューバーの動画内の文章が、おかしなことが多くて困る。まともな文章を書いてない自分が言うことでもないけど。内容よりも、てにをはを気にしていることとかあるから。選挙が近いという。政治のことは分からない。だから、勉強しなければならないと、ずっと思ったまま、そのままだ。良くないな。なにせ、こういう暮らしを続けていくためには、そうのんびりもしていられないようだから。

普段だったら読まないし、読んだところで得るものはなかったんだけど、たまたまタイトルが目にとまったから、数年前に書かれた有名な資産家のインタビュー記事を読んでいて思ったのは、評価経済って言葉、すっかり聞かなくなったなあということ。文章中に出てきて、化石を発掘したような気持ちになった。

ブログ「いらけれ」

(自分のこれまでを、間違いとして総括して、間違いに気づいた私は成長したということにして、だから今の私は正しいという理屈を展開する手法)

未来の自分に出会うように生きる。とか言って、だらだらと10時に起きる。

「何かやりてえなあ」と、窓の外が明るくなるまで、久米川にあるケーキ屋さんがラジオ好きで、「TBSラジオfamになった」ってツイッターに書いていたから、今度行こうと思ったり、東村山駅の近くにある、児童書などをメインに扱っている一風変わった本屋さんのホームページに、「紹介された」と書いてあったから、『むらのわ』という東村山の情報誌を読んで、やっぱりまったく知らないバーとかあるんだな、今度行こうと思ったりしていたからだ。

その日の昼間には、焼肉屋の2階に、テナント募集の張り紙を見ていた。僕は、そこを遊び場にする妄想をした。人狼会とか読書会、哲学カフェのために貸し出すスペースを作っても、儲からないだろうか。あるいは、地域の人がだらだらと、そこで時間を忘れて過ごせるようなブックカフェにするのもいいな。せっかく仕事に耐えて小金を貯めたのだから、本当に好きなことやりたい。「カフェ 開業」とグーグルに打ち込んで、最低でも500万円が必要だと解説されているのを読んだ。貯金の10倍だ。でも東村山市には、創業・開業支援の制度があって、お金を借りられるらしいよ。

しかし、ケーキ屋にもバーにも行かないだろうし、遊び場も作らないだろう。これらはすべて、夜更かしにしか繋がらなかった……というのが、従来の僕だ。やっとアクセス数が増えてきたというのに、このように、無内容な日記を書いてしまうのが、これまでの僕だ。『音楽ガハハ』で知った、子どもが「甘い!」と言っているように聞こえる曲(Calvin Harris「Slide ft. Frank Ocean, Migos」)があって、その反対に「苦い!」っていうの面白いなーと思っていたとはいえ、内容とはまったく関係がないのに、タイトルにしてしまうのが、まあ、今までの僕。

ある会話のなかで僕は、「どんな革命も、笑われるところから始まるんですよ!」と言った。自分で良い言葉だなって思った。イヤホンが断線して、右から音が出なくなっても、また買えばいいやと思った。「金がない」という焦りから、残高によって救われている自分を見つけた。そんな風に、自分も周りも否応なしに変わってしまうのならば、良いことを始めようと無茶な決心をしてしまうぐらい、少しでも良くしようと夢見るぐらい、悪いことではないと思うことぐらいは、悪いことではないと思う。