ブログ「いらけれ」

暇なので、NHKラジオの聞き逃しサービスを使って、いろいろな番組を聞いていたのだが、タイトルの一覧を見て、「何かありそう」と思ってクリックした『文化講演会』の「人形メディア学~人形文化を通して人間を考える」が、非常に面白かった。NHKが、いつまでアーカイブを残してくれるか分からないから、そこのあなたは今すぐに、このリンクへ飛んで、聴取を始めるべきだ。
講演を聞かなかれば、人形について思いを巡らすことなど無かっただろう、と思う。「人形」とは何か(別に哲学的な思索を始めたい訳ではない)、広義的な意味では、動物のぬいぐるみも藁人形も、あるいはキャラクターの着ぐるみでさえ「人形」だと言える(指人形の先にある"全身人形"として)。そのようにして捉えると、世界は「人形」で溢れており、我々が、いかに「人形」を求めているのか、ということを思い知らされる。
また例えば、ディズニーランドで動くミッキーマウスを見た後に、お土産で彼のぬいぐるみを買って帰るとき、私たちは、私たちの心は、それをどのように処理しているのか(キャラクターと人形の複雑な関係)ということや、あるいは、Pepper(ペッパー)のようなロボットとからくり人形の違いについて、などといったことも考えた。
(あと、演技後の羽生結弦のなるべく近くに、プーさんのぬいぐるみを投げ込みたい人のために、リンクのそばの、良い席に座っている人が、投球ならぬ"投プー"を代行してくれるという話は、コントの設定みたいな話だなあと思った)
面白いものを探す嗅覚を鍛えてきて良かった。講演者である菊地浩平氏の『人形メディア学講義』も読んでみよう。しかし、最近は本当に面白いものを引けているな。「もう無理」って思うほど、面白いもので毎日がパンパン。嬉しい悲鳴だ。

「ヨーロッパ企画の暗い旅」の公式スタンプである「旅くんスタンプ」を買った。LINEのスタンプって、初めて買う。スタンプは50LINEコインだったから、なんか、ちょっとでも応援になるならと思って、ポイントサイトで貯めた150ポイントを、150LINEポイントに交換して、よしよし、なんていい気になってたんだけど、2LINEポイントで1LINEコインというレートを知らなかったため、「旅くんスタンプ2」は購入できず、ぐええってなった。
スタンプって、みんなが知ってるキャラやモチーフのものだと楽というか、"許されている感"があるんだなあと知った。旅くんはさすがに、みんなが知ってるキャラとは言えないから、おずおずと送ることになった。「『それなに?』と聞かなければならないのか?」と悩ませてしまうのではないか?と悩むが、好きなスタンプは使いたいという子どものような心。差し出す側と受け取る側の、微妙な関係のなかで、共有するということ。「生きていくって勉強ですね、すごい」と、僕は思いました。

受像機では、それについて意見を求められるべき人の話が聞かれず、明らかに無知な人がべらべらと喋り続けている。何かがおかしい。何かがおかしくなってしまった。

ブログ「いらけれ」

一日記書くのに、一時(現代の2時間)かけていたら、人生終わっちゃうんじゃない?設定に無理ガールんじゃない?と思った。でもまあ、書くのは楽しいからいいや。人生からダイエットすべきなのは、これとは別の時間だ。


今年もやります! 原博実&上川徹がJリーグの気になるジャッジを徹底解説!【Jリーグジャッジリプレイ2019 #1-1】

「Jリーグジャッジリプレイ」が、今、一番面白いかもしいれない。Jリーグ見てない僕が言うのもなんですが。デカい誤審(浦和-湘南戦のゴール見落とし)が問題になっていたときに、番組が記事になったものは読んでいて、その存在は知っていたけど、ユーチューブで見られるなんて。しかも、Jリーグ公式チャンネルでアップされているなんて。素晴らしいことである。
そもそも、ルールというものが面白い。まず、知らない内に結構変わっている("キーパーチャージ"って、もう言わないんだ、へー。とか)。決まりは、決まりであるというだけで"固いもの"という印象を受けるが、実はグミのように弾力があり、変形可能なものなのだ。
そのようにして定められているルールは、サッカーのすべてを決めている。すべてが決まっていれば、何が起こっても白か黒か、完璧に判断できるかといえば、決してそんなことはない。出来事のほとんどは、「どこまでも微妙なケース」であり、反則のようにも、そうでないようにも見えるから、場面場面で審判はルールを解釈し、運用しなければならない(から、そうしている)。だからこそ議論の余地があり、だからこそ議論が面白くなるのだ。
という話と並行して、肉体的な問題がある。遠くにいる人は見えにくいとか、ボールと同じスピードでは走れないとか。そのなかで、どこにどう立って、どう移動するかという細かな技術論も好き。これは、僕の性癖。
審判たちについて僕は、絶え間なく、目の前で何かが起き続けているサッカーを、選手と一緒に走りながら裁くのは、とても大変なことなのだろうと、やや同情的な気持ちになってしまう。正しく裁定するのは当然で、間違えたら減点という立場に置かれているのも不憫だと思ってしまうし。
かといって、明らかな誤審は見過ごせるものではないということで、導入される映像という証拠(エビデンス)。現代の時代精神についてまでも、考えさせられるような優れたコンテンツなので、ぜひご覧いただきたい。

それで帰り道、前後にチャイルドシートを付けた自転車(子どもは乗ってなかったけど)の、ハンドルの両側に大きな買い物袋をかけた若いお母さんと、ゆるゆるとした白いシャツで、何も持たずバイクに乗っているあんちゃんを見た。なんか、象徴的だなって思った。

ブログ「いらけれ」

何かのきっかけがあって、何かが起こるというのが、僕たちが持つ当たり前の感覚だけど、そういう単純さとは離れた場所に現実はあり、それらしいきっかけは、何かが起きた後に、改めて発見されているという話は、すでに、ここで何度も書いたからといって、そのことが伝わっていると思ってはいけない。大切な話は、耳にたこができるほどに繰り返しても、それでも足りないほどなのだから。

とても久しぶりに、東久留米のスーパーまで、楽天ポイントを貯めるという目的を兼ねて、歩いて行った。そうはいっても暑いとはいえ、そこまで暑くはないと言うべき季節になったからだ。
とても涼しい道すがらでは、草刈りが精力的に行われていた。放埓に伸びた草どもを秋の前に刈って、人間は、川べりを人間にとって都合の良い場所とする。作業員の操作する機械の刃が回って、どんどんと刈られた草は川のなかに落とされていって、淀みは緑でいっぱいになっていた。修羅場から逃げだしてきたバッタは、僕の靴の横幅より大きかった。
川上では、三人の少年が川遊びをしているが、そちらに草が流れていくことはない。そのようにして働く大人たちは、子どもたちにはどのように見えているのだろうか、などと考えながら眺めていたら、内の一人が足場から落ちて、腰から下が川に浸かった。恥ずかしそうに足場に戻った彼を見て、残りの二人が笑った。その声が街に響いた。
前の背中に虫がいる。気づいてないから、それは秘密。昔、プロ野球の珍プレーで、投手のお尻に蝉が止まる、というのがあった。あはは、って笑っちゃう。なんで気づかないかなあって、後ろにいる僕は思うけど、多分、僕の背面に虫がいたことも、そのことに気づけなかったこともあったのだと思う。でも気づかなかったら、それは、少なくとも自分の中では、ないも同じだ。こういうことって、少し怖いなって思う。
NHKラジオ「すっぴん!」の再開が嬉しい。歩いていく長い時間には、放送時間の長い番組がありがたい。それを聞きながら、川の、橋のところに設けてある広場のベンチで、家から持ってきていた「ちぎって食べるロールパン」を、同じく持ってきたお茶と一緒にちぎって食べた。少し残して、スーパーまで少し歩いて、折り返して、帰りも同じ場所で食べた。そこで、お茶を全部飲んだ。とはいえ残る暑さに対して、僕は準備万端だった。体感的には涼しくとも、気温がそれなりに高くて湿度もあって、その中を一時間半も歩いていたら、かなり汗をかいてしまうのだ、ということは、人類のために書き残しておかなければならない。
ラジオを聞き終わって、音楽を聞いた。ランダムの末、「ヒサシ.カリメロ」で髭になった。この日記に、最多登場ではないだろうか、髭(調べたら、GRAPEVINEの方が多かった。そうなのか)。髭だけを聞いていたら上空で爆音がして、いつも通り脳内では、目の前に飛行物体が落ちた。しかし街は、いつも通りだった。遠回りして、ファミリーマートに寄って、auで当たったクーポンで、モナカアイスをもらった。日常をキープしたいと思った、それはとても素晴らしいものだから。


髭「ヒサシ.カリメロ」

ブログ「いらけれ」

数日前から、夏の風邪を引いている。初めは、毎日部屋にいて、ずっとエアコンをつけているから、その風に当たりすぎたせいで、喉が痛くなったのかと思った。しかし症状は、喉の違和感だけでは収まらず、咳が出るようになった。同じ頃、いや、僕が知らなかっただけで少し前から、家族も咳をするようになっていて、夏風邪家族である。どうやら僕は、移されてしまったようだ。今では、咳の症状はだいぶ和らいでいて、ゴホゴホ言う回数はかなり少なくなったが、その代わりに鼻水が出るようになった。だからまだ、夏の風邪の中にいる。
「夏の風邪」というのは、語感が良いな。って思うのは、僕だけだろうか。冬の風邪よりは、深刻ではなさそう。でも、夏バテて体力が落ちている人だったら、重篤な状態になってもおかしくなさそう。つまり、いくらでも新たな物語を始められそうな言葉だということで、五・七・五の、どちらかの五に使っても収まりがよさそうだ。
五・七・五といえば、と、この文章は意外な方に転がる。僕らの街には、それを掲げることでどんな効果があるのか、さっぱり分からないような標語がたくさんある。誰も見向きしないのに、なぜかずっとある。
標語は、だいたいが五・七・五になっている(それではメッセージが収まらなかったら、七・七がつく)。読むと、そのリズムの良さのために、なんだかそういうものかなと思う。さわやかな選挙が、さわやかな街を作るのかな、とか(そういう標語があったのだ)。定型には、韻律には、ねじ伏せる力が宿るようだ。形式が、内容を存分に誤魔化す。
それを収集するのも良いだろう。あるいは分析対象としても面白いはずだ。新たな活動として、肩書として、「標語ハンター」を加えようか。そのように考えている。

昨日、日記を書き始めようと思ったら、サーバーが落ちていて、サイトが開けなかったことを書いていない。15分ほどで復旧されたものの、かなり勢いが削がれたのは確かだった。そういえば、ドメインの会社から、10月から消費税が上がるので、8月の終わりに値上げするというメールが来ていた。どうしてそうなるのか、僕にはさっぱり分からないが、早めに更新手続きをする。
言いたいことは、こうして見えているものは、日々の取るに足りない努力の先にあるということで、でもそれは、取るに足らないものだから、普段は言及しないし、ひけらかしもしない。サイトの維持だけが特別なわけもなく、あのビルも、お店も、道路も、誰かの取るに足らない努力に支えられているのだろうが、そんなことを考えて暮らしてる人はいないし、一々そんなことを考えていては暮らしていけない。世界とは、どうしようもなくそういうものなので、取るに足らない努力を続けている人は、誰も褒めてくれなくても、自分の中に誇りを見つけていくしかないのだろうな。