ブログ「いらけれ」

将棋ゲームで連勝を続けているのと、どんどん部屋が汚れていっているのは、どちらも恐ろしい。良い方と悪い方。

ツイッターで話題になっているのを見て即反応、点で考えて、当座正しそうな方に付く、という態度では、その問題の深いところは絶対に分からないし、根本的な解決は望めない。一冊の本にはまとめられないような複雑な出来事は、インターネット記事一つで分かったような気になってはいけないのだ、ということを、真っ先に理解しなければならない。

市役所の前を通ったとき、近くの住宅街のなかに小さなカフェがあったことを思い出して、「あそこのお店、入ったことないけど、今度誰かと会う時に使えないかなあ」と、その様子を伺うために、遠慮のない太陽に照らされている道を曲がったら、男の子たちが全力で鬼ごっこをしていた。汗だくで。原初的な遊びに、大きな元気をもらう。安心して鬼ごっこができる国なのは、とても素晴らしいことなのだ。忘れないように。
歩き続けて夕方には、絵に描いたような天気雨が降った。こちら側から見える向こうの空は雲が切れていて、雲の形が分かる。歩くと靴の中敷きがずれてしまって、指の腹に中敷きの端が当たる感覚がある。それが気持ち悪くて、ベンチを見かける度に座って直していた。脱ぎ履きしたせいか、靴のかかとに付けていた滑り止めがいつの間にか取れていて、どこかに落としてしまったようだ。あの半透明の、太い眉毛が特徴のアニメキャラの眉毛みたいな形をしたあれが、道端に落ちていたら、それを見た人はどう思うのだろうな。不思議に思って、僕がいつもしているように妄想が始まって、新たな物語が生まれるのではないだろうか。
すべてはショーだ。信号待ちをしていたら、前を通り過ぎていった車の運転手が、ハンドルを握っていない方の手で、おにぎりを食べていた。度肝を抜かれた僕は、現実が一番奇妙だから、どんな本も日記も読まなくていいなって思った。でも、読んでしまうのだろう、僕のことだから。

涙を流して見せるのが、悲しみの表現ではない。声を荒らげることだけが、怒りの表出ではないのだ。そういうことが分からないから、申し訳なさそうに謝って見せているだけの人に騙されてしまう。私たちは、泣いたり喚いたりしている場合ではない。悲しいときこそ、怒っているのならなおさら、やるべきことをやろうという意思が試されているのだと、そう思って踏ん張っていかなければならない。

良い音楽はありますか。良い文学は、映画は、詩は。紹介したいような。あるいは、私にかけたい言葉はありますか。あなたの悩みは、相談は。なんでも送ってください。丁寧に返します。常に親切なのが、唯一の自慢なので。

ブログ「いらけれ」

「ひらがなでしか書けないことってあるなあ」と、舌を出しながら言い訳。

楽天銀行を使っていると、バナーをクリックすると1円がもらえるというキャンペーンがたまにあって、その度に若干嫌な気持ちになる。あれだけポイントを貯めているのに、なぜ1円では嫌な気持ちになるのか。ただの数字や物質ではない神聖さというか、ポイントとの本質的な違いを感じる……というような刷り込みを、みんなが共有しているから、お金はお金なのではないか、と考えている僕は、時代に置いて行かれているのかも。

ファン・ダイク(「世界最高のセンターバック」とも言われているサッカー選手ですね)のコメントを翻訳した記事(「“世界最強”は向上心の塊…ファン・ダイクがディフェンダーの心得を明かす」)を読んだのですが、

「僕は常に自分に対してとても批判的だ。だから周りの人にも批判してほしいと思っている。それは監督に対してもそうだし、それはいいことだと思うから」

って記事内の言葉、めちゃくちゃ良くないですか。まず、なかなかこのようには思えないし、思えたとしても、自分に自信がないと言えない。「その程度の実力で批判してほしいって……」みたいに、鼻で笑われてしまうから。こういう風に考えられる人間になりたい。言葉の力は人間の力だと思う私は、これだけでファンになっちゃいました。

最近は、昔聞いたラジオのことを思い起こす機会が多い。爆笑問題のJUNKで、太田光が本をおすすめするスペシャルがあって、恩田陸の「Q&A」とか「金閣寺」とかを紹介していて、すごい面白かったな、あれ。興奮しながら聞いて、心の底から読んでみたいと思って、結局一つも読まなかった思い出。その頃から、語られる対象よりも語りの方が好きで、面白いと思う傾向があって、だから何にも触れてこなかった。そのことを今、猛烈に後悔している。

家(うち)がまだ、洗剤をもらうために三ヶ月交代で違う新聞を取っていた頃、何新聞かの土曜日の紙面には、うねうねとした森や雲の画を、下に付いている二つの黒い丸が三つになるように、ピントを上手にずらしてから見ると、隠された立体の図が浮かび上がるというものが載っていた。「ステレオグラム」というらしい。今では視力回復につながると言われ、もっぱら目を良くしたい人が見つめているそれは、ただのクイズだった。でも楽しくて、土曜日が待ち遠しかった。家族みんなで、新聞紙を前に後ろに行ったり来たりさせながら、見えたとか見えないとかやっていた。懐かしい。新聞には、まだあるんだろうか。

ブログ「いらけれ」

これだけ思い出を書いてきた僕にも、語っていない過去はあって、僕にとって大きな出来事だったそれを、僕は夢に見た。
駄目な映画にありがちな演出のように、大声で叫んでいた。棚の上に置かれている物を、手で払って落としていた。泣きながら全力で暴れていた。夢を見せているのは僕の頭で、だから、その感情は僕のものだという信頼がある。悪夢から醒めて、まだ傷が開いていることを知った。この分では、癒されることもないのだろう。死ぬまで辛いな。

実はまじめだから、いつからか、ちゃんとやるようになった。このように書くことを続けている日々には、書けないで悩むときもあるけど、ときどき、ああ書けるってふと胸が熱くなる瞬間があって、その感覚にわーってなる。幸せを感じる。大昔に、高い塔を建てようとしていた人も、同じような気持ちだったのではないだろうか。体の中にエネルギーがあって、何かを成し遂げてしまう。この幸福は、ちゃんとやってるご褒美だと思う。人間を救うのは、これじゃないかと思う。

誰も、ちゃんと言葉を聞いて、理解して、しっかり考えてから一呼吸おいて、誠実に応答するということをしていない社会で、みんなが態度や言い方で騙したり誤魔化したりしている社会で、特定の誰かがそうだといって、そこまで責められることだろうか。責められるべきに決まってるけど、どれだけ責めてもしょうがない、だって、みんな嘘つきなんだから。場を作れでも教育しろでもいい、何を言ってもいいけど、まずはここにある日常が変わらないことには、権力を持っている人だって変わらないだろうと思う。

光で熱くなる。分かりやすくて驚く。玄関を出て、夏が来ている。暑いと暑いで文句を言うのだから、人間はしょうがない生き物だな。遠くまで行くつもりだった散歩も、すぐに心が折れて、家の方面に足を向けた。通り過ぎるTUCには、「遊戯産業を応援します」と、かの党のポスターが貼られていて、なんて分かりやすいんだって思う。「これだけで、僕にとってはアウトなんだけどなー。せめて、こっそりやってくれないだろうか。あまりにも品がないよ」と、『東京ポッド許可局』を聞いていたら、話題に上がっていた唐揚げが食べたくなって、170円ぐらいかなーとか甘いことを考えながらスーパーに寄ったら299円で、高いからやめた。だから、パソコンを見ながら、つまみなしでハイボールを飲んでいたら、眠くなって何も考えられなくなった、みたいな日本。

ブログ「いらけれ」

ペットボトルに入れた飲み物の冷たさを保存してくれるホルダーが、置いてあるはずの場所に無くて、家を出なければならない時間が迫っていたから結構焦りながら、そこにあったかごの中の布をめくったら、焦げ茶色の丸い何かが出てきた。ぱっと見は椎茸のようだった。「ちょっと、なにこれ」と親を呼んで指をさしたら、親も分からないという反応だったので、その場は任せてペットボトルホルダー探しに戻った。
ペットボトルホルダーは結局、いつも使っているリュックに入っていた(ずぼらすぎるだろ!)んだけど、聞くところによれば、あの焦げ茶色の物体は、からからに乾いたみかんだったという。いつのだ。夏のみかんって「千両みかん」じゃないんだから。あのみかん、発見後すぐに廃棄されてしまったようだが、ちょっと観察してみたかったなあと思う。今年の自由研究として。


泉まくら 『ヒロイン』

例えば、泉まくら「ヒロイン」のような良い曲がユーチューブで聞けるのは、基本的にポジティブなことだと思うけど、あーいいなーって単純に思ってて良いのかっていうのはあって、特にユーチューブは、かなり再生されないとお金にならないって聞くし、だからストリーミングサービスでも同じなんだけど、良い音楽を作っている人がちゃんと儲かってるのかなーってことが、非常に気になるわけ。
それでも選択肢がないから、とりあえずユーチューブに載せるしかないんだろうけど、そうやって一極集中してしまえば力が強くなって、後から元締めに勝手されてしまう。実際に今そうなってるし。でも、じゃあ他にどんなやり方があるのよって考えてみても、投げ銭的なもの、谷町的なものしか、思い浮かばないし、代替案が難しい。
文章でも同じで、一人でやっていこうというときには、サイト作ってアドセンスに登録するか、noteで投げ銭募るしかないわけじゃん。そんな状況よ。「では、物を作って、それで暮らしていくときに、どんなあり方があり得るのだろうか」……想像を超えるような、新しいあり方が出てくると良いなあ。

『コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史』を、まだ一ページも読んでいないというのに、矢野利裕とマキタスポーツの刊行記念イベントに申し込んでしまった。絶対読み切れないというのに!面白そうだったからさ……。
この頃、たくさんの人に文章を読んでもらっているのはありがたいことだが、基礎体力である知識と体験が足りないのは自覚している。まだまだ駄目駄目だ。だから、名も知らぬ誰かのクリックに応えるためにも、もっと自分を追い詰めなければならない。そうやって、僕が愉快な人間になれたら、僕にとっても、あなたにとっても良いことだね。