ブログ「いらけれ」

納豆を食べながら、納豆について真剣に考えると、今口の中にあるそれが、本当においしいのかどうか分からなくなるので、何も考えないことにしている。

アップルミュージックのアプリをスマートフォンで使ってるんだけどさあ、あの、ちゃんと本体にダウンロードしたハズの曲が、ときどき聞けなくなるんだけど、あれ、どういうこと?スマホで音楽を聞いてるときって、大抵Wi-Fiのない場所にいてさあ、通信量が多くならないように、気を使ってわざわざダウンロードしてるんだから、再ダウンロードもしたくないし、それで、どれが聞けない曲なのか、再生してみるまで分かんないんで、ランダム再生してると突然聞けなくなって、飛ばして次に行って、そのまま忘れちゃう。おいアップル~、安くない月額料金を払ってるんだから、ちゃんとしろ~。

こんな、ただ愚痴を書いているだけの日記を、少なからぬ人が読んでいるというのが不思議だ。書き手である僕が一番驚いている。前にも書いたけれど、新しい人もありがたいが、常連の人の存在が嬉しい。「嬉しい」と書くことによって、読む人に媚びているように見えることぐらい分かっていて、それでも書いてしまうほどに嬉しい。

遊びに行くのに、電車ではなくバスに乗った日の夜に、母にそのことを話した。あそこへ行くバスは、面倒な乗り換えもないし、思ったよりも時間がかからなくて良い、と。ただし、運転手のおじさんがミスったり、暴走した車に突っ込まれたりするかもしれないから、危ないのかもしれないけど、と。この話を受けて、「そういえば、バスに乗っていた時、追突されたことがあったでしょ」と母に言われたが、覚えがなかったので、「俺、いた?」と尋ねた。すると母は「ああ、あんたのお産で病院に行ったときだ」と言った。確かに僕は、そこにいたようだ。
大した事故ではなかったという。だがバスは、事故の後処理をしなければならなかったらしく、母は、後ろから来たバスに乗り換えたそうだ。そんなことがあったなんて、という大きな驚きと、もっとひどい事故だったら生まれていなかったかもしれないのだな、という不思議な感覚があった。自分が生まれていない世界は、生まれてしまった僕には、うまく想像できないものだった。「生まれてなかったかもじゃん」とつぶやいたら、「そうね、流産していたら……」と母が言ったので、なぜ俺だけが死ぬことになっているのか、自分が死ぬ可能性は考えないのか、とツッコんでおいた。

文章が上手く書けないのは、auスマートパスで落としたアクションパズルゲームを、寝る前に少しやろうと夜中の2時から始めて、熱中して4時までやって、クリアしてしまうような人間だからからだし、流行りの小説でも読んでやろうかと、いつも思うだけで読まないからだし、もう無理だな。それで十分だろう。

ブログ「いらけれ」

子どもの頃に受け取ったものがすべてだと、○○歳までに触れたもので、その人は形成されるのだという話を、よく耳にする。確かに、「大人になったら人間は変わらない」とまでは言わないが、子どものころのようには、柔軟に変化しなくなっていく感じはある。

とはいえ、子どもには学べないものがある。老化だ。

子どもの頃の一年は、成長でしかなかった。背が伸びて、体重が増えて、足が速くなって、勉強が難しくなっていた。そして、それは当たり前のことだった。

何の疑問も持っていなかった成長は、大人の入り口に立つ頃に止まる。あるいは、成長が止まった人を、大人というのかもしれない。

もちろん成長期を過ぎても、鍛えることによって身体をパワーアップさせることはできるし、知識を増やし、見識を広めることはできる。しかしそれらは、努力の先に辛うじて達成できるものであって、「去年と同じ」をキープしているだけでは、少しずつ駄目になっていく。

こんなこと、前に書いたっけなあ。記憶力が衰えつつある僕には、ぜんぜん分からない。

問題の本質は、衰えていくことではない、大半の大人が、その事実を忘却していることだ。ともすれば、少し良くなっていると勘違いしていることさえある、何一つ努力していないのに。そういう意味では、冒頭の言葉も当たっていると言えるのかもしれない。

しかし、子どもに衰え方を教えればいいというものではない。まず、大半の大人が「正しい衰え方」など体得していないのだから、教える人がいない。また、衰えることに現実感のない子どもに対して、どれだけ言葉を尽くしても、まったく伝わらないだろう。

つまり、とても辛いことだが、衰えに自覚をもって、衰える自分を見つめ、衰えてしまった自分に腹を立てながら、実地訓練で覚えていくしかないのだ。現実に抗って、歯を食いしばって頑張らなければ、水のように低い方へと流れていく。

10代の君へ(そんな人いるのか?)、まだリアリティがないだろうが、衰えるのはとても辛いぞ。人生の秘密は、大人になってからの方が長いということなんだ。早く来た冬の、早々に太陽が沈んだ夜の、花が散って朽ちるのを待つ木。

自分が頑張れているのかといえば……なかなか難しいところだ。大きな挫折の後の、苦しくて切ない毎日のなかで、それでも、26歳になってからサイトや日記を始めたり、そこまで悪くはないと思う。「千里の道も一歩から」というからね。狭い箱に入れられて、黒い服の人に囲まれるまでの間、僕は頑張り続けられるだろうか。自信はないけど、やってみるつもりだ。

ブログ「いらけれ」

この前の土曜日、日記を書きながらではあったものの、初めてユーチューブではなく、TVKで『ヨーロッパ企画の暗い旅』を見た。「ワンナイト100円フィーバー3の旅」は、"谷回"と番組内では言われていたけれど、すごろくの演劇への偏見がすごい件とか、変なマスのせいで「世にも奇妙な物語」みたいになってしまった場面とか爆笑で、とても面白かった。土曜日の楽しみが増えた。よかった。

「受け手を信頼する」と言う。「受け手を信頼する」という言い回しがある。「受け手を信頼する」と言うためには、自分が受け手になったときに、間違えて受け取っていないという確信がなければならない(自分が間違えてばかりで、どうして他人を信頼できるというのか)。
人間には、それぞれに固有性がある。それぞれの経験がある。知識に欠けがある。先入観がある。だから、そこに書かれているものを、そのまま読むということですら、実はとても難しい。でも、普段はそんなことをすべて忘れて、偏見も何もない透明な存在として、作品を受け取っているつもりになっている。
そういった"自信過剰"から目覚めて、距離をとってしまう私のような人間は、受け手を信頼などせず、どのように受け取られても仕方ないと諦め、自分が納得できるか否かに、すべてを懸けている。

本当は、受け取り方に正解/間違いはあるのか、作者が設定した答えが正解なのか、といった難しい問題も考えなければならない。

思いの外、事実は柔らかく、真実は固い。起きたことは変わらないはずなのに、たった一つの情報(それは嘘でも構わない)を加えるだけで、人々のなかで事実の形が変わる。人々のなかにある真実というものは、信じるということは、根拠のあるなしを超えている面があるから、いくらそれが誤りであることを説明しても、形を変えない。
真実の話は何一つ面白くない。真実を語る言葉は、こちらが同意していない根拠薄弱な前提に基づいて進められ、「私はこう思う」という信仰の告白で終わるからだ。真実を話す人には色気がない。迷いやためらいのない態度は、人間らしくないからだ。
人間のなかで凝固した真実に、どのように対抗していくのかが、これからのテーマだ。どうすれば、真実の破壊者として生きることができるだろうか。そのための武器を。

ウイスキーをドクターペッパーで割るとおいしいのは、ドクターペッパーがとても甘いからなんだな。バカみたいな文章。


高橋徹也「テーマ」

なんという朝日
俺はまた生き延びた

ブログ「いらけれ」

ボーっと考え事をしながら移動。人間の記憶には、カタログ的なものと、物語的なものがあるのではないかと思いつく。それで僕は、カタログ的な記憶力が本当にないなと思う。いや、テスト前日の暗記とかは、それなりに覚えられるんだけど、残しておけないというか。同級生と話していて、遊戯王とかポケモンのたくさんのキャラクターを忘れないでいることに、いつも驚かされる。僕もやっていたはずなのに、全然覚えていないなあ。
僕が記憶しているのは、家に遊びにきた友だちが、僕のゲームボーイを操作して、ポケモンの裏技を使って、どれかのポケモンのレベルを100にしてくれたけど、それまで無駄な努力をしていたみたいで、虚しい気持ちになったこととか、マンションの駐車場で、数人の友だちとポケモンのフィギアで遊んでいたんだけど、そのなかの「ロコン」というポケモンのことを、何度も「コロン」と言い間違えて、最後まで正せなかったことだ。
頭の中にあるのは、色の付いた像としての一場面と、大まかなエピソードだけ。日記に書くときは、記憶の像を仔細に見ていきながら、物語の隙間を埋めている。綺麗に整えられた思い出は、実際にあったことでも、完全な作り事でもなくて、その間にある。

未来を記録したビデオテープが山積みになっている。一日一日、それを見ている。

例としてポケモンが出てきたのは、もしかしたら最近、ユーチューブでゲームの小ネタ集みたいな動画ばかり見ているからかもしれない。そのなかには「ゲームあるある」を紹介するものがあって、よくRPGで、「はい」と「いいえ」の二つの選択肢が出てくるんだけど、結局「はい」を選ばないと物語が進まない、というネタがあった。
言われてみれば、確かに何度か見かけたことのある演出だが、深く考えたことはなかった。なぜか、ゲームとはそういうものだと納得していた。しかし、こうして取りあげてみると、なぜわざわざ無駄な入力をプレイヤーに強いるのか不思議だ。
僕の頭程度で思いつくのは、ゲーム内の選択を、例えば、姫を助けに行くことを、操作しているキャラクターではなく、プレイヤー自身が決断したのだと思わせるための、一つの仕掛けとして作られているのではないか、というものだが、それならばなお、何度「いいえ」を選択しても同じ反応が返ってくるばかりで、お話が進行しないというのは、それがプログラムに従って動いているゲームであることを、強く意識させるものであるはずだし、自分の選択ではなく、ゲームに選択"させられている"ことを、感じさせるものであるはずだ。
僕には分からないような意図で、選択肢が作られているのだろうか。それとも、(僕のように)あえて「いいえ」を選ぶような天邪鬼は無視して、ゲームが作られているのだろうか。調べると面白そうなテーマだ。