ブログ「いらけれ」

コメントを付けると、丁寧な返信が返ってくる日記としてお馴染みたいので、どんどんコメントを付けると良いんじゃないかと思うぞ。誹謗中傷だったら、承認しないけどな!

『競馬予想TV!』における横山ルリカとか、『球辞苑』における土屋伸之とか、ナレーションですごい仕事をしているなあと、ずっと思っている。僕みたいな、ちっとも影響力のない日記書きが評価したところで、何の役にも立たないけれど。

2000円しないサンダルたちの前で、30分悩むことができる男だ。だって、同じぐらい欲しいというか、欲しくない度が同じものが二つあって値段も同じで、人間は差がないと選べないのだなあと思った。すべてを限界まで安くするのではなくて、一方をわざと少しだけ高くして売れない方を作り、もう一方を魅力的に見せるのが商売のコツなのではないだろうか、素人の想像だけど。
結局サンダルを買わなかった西友で、どちらも20%割引になっていた鶏団子と野菜の甘酢あんかけ弁当と焼豚を買った。ただ貧乏性なだけだな、僕は。お弁当の売りであるヘルシーさを、プラマイゼロにしてしまった200円ちょいの焼豚が、非常においしくて感動する。こんなにおいしいものが、こんなに安く手に入る社会なのに、どうしてこんなにも、ひどいことばかりなんだろうね。

ど根性人間。アスファルトの間から顔を出す。

Mリーグのドラフトを見ていた。詳しくないとはいえ、それなりに麻雀を見てきたから、おーと思うところがあったり、感じ入る場面があったりしたのだが、「指名なし」をありにしたのは、エンターテイメント的に失敗だったのではないだろうか。ドラフト単体としてもめちゃくちゃ分かりづらかったし、3人編成と4人編成のチームで分かれてしまうのも、新しく見る人は混乱するだろうし。もちろん、新たな選手と契約すると、最低でも400万円の年俸を支払わないといけなくなるわけだから、難しいチームがあるのも分かるんだけどね。
それで、Mリーグと関係あるっちゃあるんだけど、


【麻雀】"持ってる男"内川幸太郎!Mリーグ指名直後に国士無双!【役満】

これが、二代目麻雀爆笑動画に認定されました(僕のなかで)。もちろん初代は、つっちーの「親戚なの~」なわけですが(知りたい人はググってください)。
素晴らしいプレーとか、その詳細な解説といった面白さとは、まったく別の楽しみ、プロはそれぞれ個性的なんで、そういう面がもっと広まっていけば、ファンの新規開拓にもつながっていくのかなあとも思うんですけどね。

(学級会で手を挙げて)ひらがなにすると、なんでもいい感じになるので、タイトルをひらがなにするのはズルだと思います。やめた方がいいと思います。
……同感です。

ブログ「いらけれ」

息つく暇もない日々で、一息つく。なんかもう、すっかり日記じゃないものになってしまっている。いろいろ気にせずにいこう。やっとまた、『静寂とは』を読み始められていて、調子の良さを感じる。フレッシュオールスターもオールスターも少しだけ見た。一度置いたカップ麺を掴み損ねて、カーペットにこぼしてげんなりする。今日の夕飯は、スーパーのお弁当にしよう。将棋がいつもより上手く指せた。なんか違うと思いながら人生の時間。

久しぶりに靴を洗った。靴と一緒に帽子も洗った。だいぶ汚れていたから。洗剤とバケツと水。30分ぐらいだったか、「僕たちだけがおもしろい」を聞きながら、手を動かしていた。靴を洗うときは、先に靴紐を外さなければならなかったことを忘れていた。ヅダの回みたいだ。まくらで話されていた、作品と作者(製作に携わった人)を切り離して考えて良いのかというのは、ずっと考えているテーマで、この日記の「俗なるもの」でも一部書いている問題だし、作者の行いを許すか許さないかが、受け手の倫理観に左右されるというのは、「2019年4月『デモクラシーCafe@東村山』(後篇)」で、友だちの話にずらして書いたことでもあったので、興味深く聞いていた。こうやって、シリアスなときだけ感想を書くのは申し訳ない、だって毎回聞いているから。頑張って洗ったので、帽子も靴も、それなりに綺麗になった。ベランダに運んで干したものの、雨は降ってなかったけど灰色の空でなかなか乾かなくて、帽子には丸一日、靴には丸二日かかった。

言いたいことや思ったことを、表現にまで落とし込めていないから、読む人が増えないんだろうな。

それで、靴を買いに行くことにした。洗ったところで、草臥れている感じは変わらなかったし、匂いも気になったから。曇天の下、靴流通センターまで20分歩いたものの、ピンとくるものが一つもなくて、完全な無駄足だった(靴屋だけに)。久米川の西友まで戻って、3000円とちょっと高くて迷ったけど、アプリのクーポンを使って購入した。お出かけ時に履いていけるものは手に入れたので、普段使い用のサンダル的な靴が欲しいなって思った。夏だし。


これから読む本の自慢でもしておこうか。どうだ、非常にセンスの良いラインアップだろう。褒めてもいいんだよ。まあでも、これらの本が積まれたままになっているのは、頑張らないと沈んでしまうような、ギリギリの毎日が続いているからで、やりたいと思ったまま、ラジオにメールを送る活動も、ずっと再開できないでいるし、泣ける。そうやって逃げるのはいけないぞ、僕よ。もっと自分を消費していけよ。

ブログ「いらけれ」

言葉が出てこない。あまりにも大きな穴が開いている。うわっと思いながら、それを見ている。異常事態を前にしたら、誰かに伝えなければ気が済まないのが現代人だ。でも語らない。語らないということでしか、救われない状況がある。語られないかぎりにおいて、あなたは分かりようがない。それでいい。謎は謎として、あなたに投げておく。ただ、すべての人が健やかな日々を送れるように、それだけを祈っている。

ああ、あれか。夜中というか朝方まで、おじさんたちの草野球を見て、寝ている間から右耳だけが痒い夢を見て、朝起きても右耳が痒かったから、まだ夢の中なのか。
ドリームゲームというのがあったんだ。生まれてから今まで、知ろうと思ったものは少しだけなのに、知ってしまっているというのが人間の暮らしで、勉強したわけでもないのに、好きで試合中継を見たり、本を読んだりしてきただけで、プレーする姿を見たこともないのに、名前を覚えているということがすごい。
決まりも進行も、きっちりしていない場でしか生まれないものというのがあって、でも、どんなことを始める前にも、ついそのことを忘れてしまうが、ただし、適当にやればいいという訳では全然ない。歴史というのはいつでも、言うまでもなく大事なのに、この国では軽視され続けているが、あの催しは、歴史を伝えるものになっていて好ましいと思った。それは、往年の名選手が登場するからという理由だけではなく、当然ながら、あの緩い雰囲気が表現するもののなかに、これまでのすべてが宿っていたからだ。

お金をかけないで作られたものがお金を生むのだから、プロの技術は軽視されるし、一発狙いの粗製乱造が横行するのは避けられない。これから先の世界が、ただ悪くなるとは言わないけれど、これまで良い時代に生きてきたんだな、と思ったのは確かだ。


会社員いんちき文章講座 無駄に伸ばす

「もっともらしくする」方向性が違うだけで、基本的にはこういう作業をしているのだと思っていただいて構わないというか、とても的確に手の内を明かされているというか、むしろ勉強になったというか。
これを参考にすれば、誰でも、会社員としてそれらしい文章が書けるだろう。そして、これを応用すれば、詩的にそれっぽい文章を、誰でも書くことができるだろう。
読者であるあなたが、ここから学ぶべきなのは、詐欺師に騙されないように、このテクニックを逆転して、読解に使うことだ。もっともらしいだけの文章を「あれ、何も言ってなくね?」と看破せよ。

ブログ「いらけれ」


泉まくら「日々にゆられて」

すごろくみたい ろくに考えもせず
でたらめだらけ 進んでただけ

泉まくらの超絶名曲の歌い出しだけど、歌ってみたら分かるけど、普通に語呂が良い、それだけかと思ってたけど、昨日の夜、風呂に入っているときに、「ああ、『すごろく』だから『でたらめ』なのか~」と閃いた。「でたらめ」なんて言葉、普段は何の意識もせずに使ってるし、賭博の隠語で、振って出た賽の目のままにするという「出たらその目」が語源と言われていることなんて、まったく知らなかったけれど、「でたらめ」の(さいころの)目が出る感じと、さいころを使う「すごろく」とが、遠くで響き合っている。それは、このように取り上げて、頭で理解する前から、どこかで感じていた気持ち良さで、だから好きだったんだなって思った。


【歌詞つき】レインメーカー(live ver) / FoZZtone[official]

スーパーマーケットにはグレープフルーツの香り
俺の脳は呼び醒ます
家族のテーブルといつもの席順とそこにいたこと

歌詞について、もう一つ思ったことがあった。今週のNHKラジオ第1『すっぴん!』月曜日で、グレープフルーツが話題に上がっていて、若い人はグレープフルーツ専用のスプーンを知らないだろうし、持っていない家庭がほとんどで、それだと面倒だから食べる人が減ったのではないか、という話をしていた。僕が若いからなのか、単に無知だからなのか分からないけど、グレープフルーツスプーンは知らなかった。というのは脇道で、確かにグレープフルーツを食べるのは、半分に切られた断面から果肉を掬い出すのは、蟹と同じとまでは言わないが、結構な事業という印象だ。
一人暮らしだったら……というのは、僕の場合ただの想像だが、その面倒くささから、一人暮らしの家にはなかなか導入されないのではないだろうか、グレープフルーツは。ゆえに、グレープフルーツから思い出されるのが、「家族のテーブル」なのではないだろうかと、僕はこの曲を思い出しながら考えた。
固い皮を剥いて切り分けるという面倒を引き受けてくれる存在によって、あるいは、こちらの面倒はさておき、母の気まぐれで出される果物として、グレープフルーツを食べていた頃。そこから遠く遠く離れてしまった時、フレッシュなグレープフルーツの香りは、「家庭」を思い出させる引き金となるのではないだろうか。

こういうのは、歌詞を書いた人がどう考えていたかとか、どういう意図で作ったのか、ということとは、まったく関係のない"遊び"で、とても楽しいので、もっといろいろ考えてみたい。そして、思い付いたらまた書きたい。