ブログ「いらけれ」

その日の僕は、仕事をサボって外に出た。晴れていて暑くて、夏に近づいているのが分かる。小さな虫が、塊のようになって、飛び交っている。靴が重たく感じる。夏用の靴を買わないと。でも、使えるお金は限られている。財布だって、ボロボロのままだから、早く買い替えなければいけないし、服と帽子はダサいし。でも、迫りくる季節を前に、どう生きようか思案する自分は、人生のなかでもマシな方の自分だ。悪くない。

いつものコースを歩きながら僕は、『文化系トークラジオ Life』を聞いていた。「平成で終わりにしたいマナー」かあ。やっぱり僕は、マナーというものに居心地の悪さを感じながら、どうでもいいって思いながら、それを破るわけでも、それに背くわけでもなく、嫌われないためだけに、無思想に守っているところがあるなと、人生を振り返って思った。

マナーには益も害もあって、そこにいるのは(僕も含めて)人なのだから、ただ従うのでも、破った人を白眼視するのでもなく、その場において都度都度声をかけあって、適切なやり方を探るべきだと分かっていても、それはとても難しいことだ(だからこそマナーがあるとも言えるわけだし)。

僕が気になっているマナーは、食べるときに口を開けてくちゃくちゃ音を立ててはいけないというやつで、これも(番組内で話されていた、満員電車におけるリュックサックのように)音を立てないのがマナーだと言われると、途端に音を立てている人が気になるというマナーで、そのことが不思議だなあと思う。食べながら耳をすませば、自分の脳内に、一番くちゃくちゃ音が響いているというのにね。僕はそこまで気にならないけれど、ここ数年、めちゃくちゃキレている人をSNSで見かけることが多くなったと感じていて、自分は音を立てないようにと、かなり気を付けるようになった。

そういえば最近、麺を啜る音がうるさいと、外国の人が思っているという話題を見かけた。この意見に反感を覚える人も、くちゃくちゃ音を立てる人には怒っていたりして、だからマナーって難しいなと思う。何が良くて何が悪いかの基準って、とても恣意的なのに、その基準のなかにどっぷりと浸かっていたら、良いものは良いとしか思えなくなる。理由がないことに、疑問を抱かなくなる。

僕は、いつでも自分を点検していようと思う。僕だけは間違っていないと思うことが、間違いの始まりなのだから。こんなことを考えながら帰り道、目の前で、おじいさんに自転車がぶつかる。

ブログ「いらけれ」

こんにちは。今日も日記を書くために、ここ数日で起こった色んな出来事や、思ったことを思い返しています。

僕は、時間がないといつも思って、部屋が汚くなる一方なのも、そのせいにしている。でも、僕は色々なことをやってるからしょうがないよね。一番時間を使っているのは、エッチな動画を探すことで、これはやめられないので、二番目に時間を使っている将棋をやめるために、二段になっていた将棋クエストをアンインストールした。将棋ウォーズと同じ段位まで行って、そこから上がり目が感じられなかったので、僕の実力はここが限界なのかなと思う。クエストは対局数が無制限で、つい熱くなって何局も指してしまっていたが、そのことをいつも後悔していた。上達しないし楽しくないという最悪な状態で、息抜きにもなっていなかったから、これからは、ウォーズをたまにプレイする程度の付き合いにしようと思う。自制。

それで僕は、久しぶりに株の勉強を始める。将棋でお金が儲かることはないけど、株なら可能性があるからね。僕は馬鹿だな。初心者向けの動画などを見て勉強して、おそらくすべてのビギナーが思うのは、これなら簡単に儲かるはずだということで、はっきり言って儲からない理由が分からない。しかし、現実には8割から9割の人が損をしているらしい。どういうことか考えてみた。思いついたのは三つだ。

一つ、勉強しないで参加する人がたくさんいて、それで負けている。
二つ、勉強しても、その教えを守れないから負けている。
三つ、そもそも株で勝つこと自体が非常に難しく、1~2割しか勝てないので、その通りに負けている。

その他、何か僕が思いつかない理由によって死屍累々なのかもしれないけど、とにかく「ポケットを叩くとビスケットは二つ」みたいなのって人類共通の夢で、それを目指すがあまり、みんなお金の前でおかしくなる。この日記の読者になるような、まっとうな人は知らないだろうけど、株には、勝ち方を教える塾とか学校みたいなものが、結構な数ある。しかも、授業料うん十万とかで、本当に勝ち方を教えられるのならば、そのやり方で自分で儲ければいいだけなわけで、つまり、高額な授業料を取るということが、勝てないということを証明しているのに、そんな塾や学校がなくならないということは、お金の前で、人間の目はかなり曇ってしまうということだろう。

家のトイレのタオルがもふもふで、もふもふは気持ち良くて、毛布をもふもふにしてから目覚めが悪くなった僕は、そのことがとても恐ろしい。いつか、世界はもふもふに支配されるのではないだろうか。すでに、SNSが猫に支配されかけているように!気持ちの良い物、気持ちの良い映像、気持ちの良い言葉、気持ちの良い政治。僕は、高架下の空き地でもふもふに包まって、若かった頃の夢を見ることしかしない老人になるのではないだろうか。

このように、まったりと生きている僕の前で、あんなことが起きるなんて、この時は、思いもよりませんでした。

ブログ「いらけれ」

私の、ゴールデンウィークのど真ん中に、インターネットでの買い物に使えるポイントを貯めるだけに所沢へ行って、プロペ通りの人の多さが、よくここを通っていた頃のことを思い出させたり、自分はパニック障害ではないかと疑って、家から行ける範囲にある精神科病院を調べていたときに、ネット上の口コミが良かったクリニックの前を通って、結局、もっと家に近い病院を選んで電話をかけたら、予約が一杯だから来月にならないと診察ができないと言われて、俺はパニック障害だからいいけど、鬱の人だったら、下手したら死ぬんじゃねえかなあと思ったことを思い出したり、帰り道にはルートを変更して、坂になっている道の方へ進み、わざわざ遠回りしてまで、線路が下を通っている景色を見たり、この右手にあるマンションは、さぞかし景色がいいだろうと思って、そちらに顔を向けたら、建物の前が広場のようになっていて、鉄棒とジャングルジムと滑り台があって、滑り台の前には砂場があるけれど、鉄棒とジャングルジムの下はアスファルトで、子どもの頃はよく鉄棒やジャングルジムで遊んでいたが、ふざけすぎたり、無茶したりして何度も落ちたのに、今でも生きているのは下が土だったからで、これでは子どもを遊ばせることはできないだろう、などと考える暮らしは、一つのシェルターのようなもので、このように生きて、それをネタにして、このように書いたところで何になるわけでもないのに、しかし、現実から目をそらして、やるべきことに背を向けるのには十分で、英語ぐらいできた方がいいと分かっていて勉強しないのは、怠惰以外の何物でもない

私がそのとき、自動車教習所の前に差し掛かったそのとき、ビルに垂れ幕がかかっていて、免許を取得するために必要な費用、30万円いかないぐらい費用が書かれていて、施設内のコースとバイクを前に、入念なストレッチをしている人々に目をやりながら、「払えるな」と考えて、一瞬だけ教習を受けている自分を想像した理由が、今日分かった。それは、ユーチューブの方で見ていた『本と雑談ラジオ』を、ポッドキャストで聞き返して、それは長嶋有がゲストだったからというのもあるだろう、そのなかで、小説を書き続けて、書くことがなくなったときに、免許を取れば、自分を変えないまま書くことが倍になると思った、と長嶋が話していて、それが意識にあったわけではないが、無意識が覚えていたからだ。"plasticity"は、可塑性という意味の英単語で、人間にもプラスチックのように可塑性があって、それは抽象的なレベルではなくて、脳が、シナプスが物理的に変化するということで、その変化は恐ろしいことでもあるけれど、自分が変わること、変わることを体験することは、大きな希望でもあるのだと思った。

あなたは、私の話を信じないと思うから、グーグルマップのリンクを張っておこう。これが、確かに私の見た光景だ。

ブログ「いらけれ」

JAZZ DOMMUNISTERS「Illunatics feat. 菊地凛子」

ゴールデンウィークに自由を獲得した僕は、その自由を謳歌しなければならない。だから文法やてにをはといった作法や、あるいは文章上におけるマナー、暗黙の了解からも自由にならなければならないと書かなければ、自由に文章を書くことができない僕は、まったく自由ではない。あえてやっているのだ、例えば昨日の「坂の途中には、釣具店と看板に書かれた家のシャッターは、ずっと昔に閉まったに違いない」という部分だって、おかしいということを分かっていなければ書けないのだということが、多くの人には分からない。

重要なのは比較三原則で、みうらじゅんの提唱したこの概念を、僕はあらためて調べるうちに、元TBSアナウンサーの小林悠のことを思い出したりしながら、僕は調子よく過ごしていたあの日の、目も当てられないようなあの出来事は、もう何日前のことだったか分からないが、ラジオを聴きながら歩いている今、すでに記憶になっている。

数分前までは、屁をひったつもりだった僕も、家族に隠れて下着を洗っていた。極めて慎重に、まずは便所に移動した。天井からみたら、みっともない形だったに違いない、情けない姿で下着を下ろし、足を抜いて手に持ち、視認する。脳内では、冒頭の曲の冒頭部を聞いたときに浮かんだ像が、目の前に現れている。「直前に何を食べたか、その断面から分かる」。このようにして、あるいは「自身の腸内は分からないのに、人間というものは、危機に陥るまで、そのことに思い至らない」などと思索をすることによって、ある種崇高な体験のように感じていたが、そこで起きていたのは、男が下着を便器の水で洗い、何度も水を流しながら洗い落とし、袋に包んで捨てたというだけのことだ。

老化かね、ひどいねどうも。この文章を前にして、この文章の後に、何を書けばいいのか、何も書くつもりにならないから、T字路に差し掛かった僕の、左から来た車の、こちら側の方向指示器が光ったから、ああこちらに曲がるのかと、横断歩道を渡りたかった僕は、そのまま真っすぐ進もうとしたら、運転手は間違えていたようで、曖昧な時間の後に直進してきたから、目を切らずにいた僕は既の所で止まって、車も止まって、轢かれることはなかったという、実際に起きたことを書く。なぜこんなことを書いたのか。実は、これは後日更新される日記の伏線で、しかし、「これは伏線だ」と明示されてしまった伏線は、伏していないのだから伏線とは言えないだろうから、なんと呼べばいいのだろうか。

(続)