ブログ「いらけれ」

野球が昼間にあったので、夕方の6時から外へ出た。いつの間にか日が長くなっていて、意外と明るい。まだ3月ぐらいの気持ちでいるというのに。そして、それより意外だったのは、結構肌寒かったことで、これじゃあ暑いかなあと思いながら、薄手のパーカーを着てドアを開けたら、通り抜ける風が冷たい。毎日毎日歩いている僕は、たまにしか家を出ていなかった頃よりも、世界を連続的に捉えるようになっていて、気温をチェックしないで外へ行ってしまうから、急な温度変化に対応できなくなっている。行きつ戻りつしながら、季節は進む。

基本的には、楽天ポイントを貯めるために、わざわざ4キロ歩いたりしているのだ。マルエツが30P(普段は10P)になっていると、どうしても足がそちらへ向かってしまいがち。でも、僕がこの前、東大和市駅まで行ったのには別の理由があった。アンケートサイトを使い始めた当初、メインのりそな銀行の口座をサイトに打ち込むのは不安だったことを理由として、以来ずっと、三井住友銀行の口座に換金していた。三井住友は、家の近くにはなかった。家の近所は、三井住友とローソンの不毛地帯になっていて、そのことが不満だ。auのキャンペーンでもらえるクーポンが、ローソンばかりなのが、いらだちに拍車をかける。そんなことはどうでもいい。

僕が三井住友の口座を作ったのは、前の前の会社に指定されたからだ。手数料の節約といった会社の都合によって、賃金の振り込みを特定の銀行の口座とすることには問題があり、しかし、そのことを数年前の僕は知らなかった。その他、面接や入社前の手続き等、あらゆる場面でサインは送られていたのだから、決然と内定を辞退していれば、僕の人生も、こんなことにはならなかっただろう。

口座には、最後に換金した5千円と、ATMでは下ろせない数百円の小銭が残っていた。17時までに行けば手数料がかからないだろうと思っていたが、歩き出す前に、グーグルマップで目的地として設定するために見たら、銀行が閉まるのは15時だった、しかし、今調べたら本支店のATMは18時まで無料のようだ。でも、その時はそのことを知らなかったから、13時50分に出発し、約1時間かかる予定の行程を、「三井住友め……」と思いながら、めちゃくちゃ急いで歩いた。したら、50分ぐらいで着いて、14時40分にはATMの前にいた。やればできるじゃん。小銭とお札が、別々の口に、一緒のタイミングで出てきて、手間取っているとすぐに警告音のようなものが鳴って、すごい焦ったという思い出を残して、残高を0にしたことで、僕は三井住友とも、あのひどい会社とも手を切ったように思い、とてもすっきりとした気分だった。

すっきりしたと書くことで僕は、本当にすっきりしたようになって、元気になっているのが分かる。セルフメディケーションである。

ブログ「いらけれ」

象牙を取るために、顔をえぐられた象の画像をツイッターで見て、僕は昼間のことを思い出していた。

手元のアプリを確認しよう。僕は、ここ一週間で3日も1万5000歩以上歩いていて、少しおかしくなってしまったのかもしれない。少し?

往復で、2時間近く歩くことになる。ここのところ、やんわりと暑くなってきていて嫌だな。この先の本格的な夏が恐ろしい。"この時期に、合った薄さの服がない。おんなじシャツを着まわしている"。

ナイターが始まったことにより、聞きたいラジオ番組が減ってしまってから、移動する距離が伸びた。困ったことだ。僕は少し前まで、「学生時代、一年に映画を200本見た」的なことを言う人に劣等感を感じていたが、中学生の頃には、それこそ一年に3000時間以上ラジオを聞いていたと思うし、その経験が本当に、今の自分を助けていると思う。

僕にも誇りに思うべきことはあるのだ。でも、最近になってやっと『荻上チキ Session-22』のアーカイブが、今年の分に入った。平成が終わること、そして、新しい元号になった後のことを語っている音声を聞きながら僕は、その未来予測のなかにいた。

シャネルが、ワニやヘビの革を商品に使わないことに決めたというのは、僕が聞いたのは今だけど、だから去年の年末のニュースだ。動物愛護などを理由に、すでに毛皮製品を取り扱わないと決めたブランドは多いという。ワニ革も、その残酷な製造過程が問題視されていたそうだ。ワニの肉は、日常的に食べる地域もあって、日本で食べられるお店もある。
残酷っていうのは興味深い感覚で、ただ食べために殺すことはスルーできても、アヒルに強制的にエサをやって、フォアグラが作られていると聞くと、そちらの方が問題だと感じてしまう。それでまあ、どうやら人類は、哺乳類については憐憫の情を持つらしいということが、長年の人間生活の結果分かったのだが、上記のニュースを聞いて、爬虫類もいけるんだと思った。爬虫類って結構、人類が「かわいそうだ」と思わなそうな生物だと思っていたから。
いつか、生きたまま捌かれるアジや、小学生のおもちゃにされるセミも、かわいそうだと思うようになるんだろうか、人類。家に帰ってきた僕は、洗濯物を取り込むためにベランダに出て、エアコンの配管刺さった小さなネジの頭の先にハニカム構造を6つほど作っていたハチに、まずは驚き、その後殺虫剤を散布して追い払ったけど、逃げていく姿を見ても、かわいそうだとは思わなかった。

このようにして、歩きながら考えたことを、明日からも書いていこうと思う。

ブログ「いらけれ」

“そして誰もいなくなった"という感じだ。何がって、東京ヤクルトスワローズなんだけど、開幕戦のラインナップの1番から4番までが、さらに守護神までが、5月の段階ですでにいないってヤバすぎるでしょう。4番が19歳ってどうなってるんだ(村上が4番であることは、最高だと思っているけれど)。なんかもう、オーダーに名を連ねているのが、オープン戦の、しかも試合終盤みたいなメンバー(野球好きにしか分からない例え)で、見るからに弱そうだ。僕はファンだから、応援するのはやめないけれど、勝つことを期待しながら見られるのは、主力が帰ってきてからだな。しかし、不調のほとんどが、どうもプレー中の不可避な怪我ではなく、自損事故っぽいのがなあ。去年は怪我人が少なかったから、コンディション面の管理については、他チーム並みに整備されたのかと思っていたけど、そうでもなかったんかなあ。ちゃんとお金をつぎ込んで、改善してほしいもんだがなあ。

小説家の渡辺浩弐さんが、「渡辺浩弐のノベライブ」と題したライブ配信を毎晩行っていて、『令和元年のゲーム・キッズ』というシリーズのショートショートを書いているのだが、これが非常に面白い。リアルタイムで何かを書いている姿を見ることが、自分が物を書くことの役に立つなんて、これまで思ってもみなかったことだ。例えば、同じ単語を近いところに置かないとか、基本的な技術の勉強にもなるので、文章を書かない人にとって、かなり為になる動画だと思う。あと、自分が文章を書いているときの頭の使い方が、渡辺さんと結構近いような気がして、なんだか自信がついたりして。
ただし、さまざまな理由によって、実は動画をオススメしづらいんだよなあ、見れば分かるのだが笑。耳わーってなったりしたからなあ。あとマウス。気になった人はクリックだ!

死んでんだよなあ。寿命を削っている。嫌な仕事をしているということは、時間が前に進んでいる分だけ死んでるし、ストレスの分だけ死に近づいてる。死なないために、やりたくないことをしない。金がなくて死ぬように、他の何かで死ぬのなら僕は、小説を書こう。そういえば先日、小説に書きたいテーマを見つけた。それは、今はまだ言えないけれど、僕が書き上げることができたなら、あなたは読むことができるだろう。


Homecomings – Cakes(Official Music Video)

この明白な迷い道に、出口のない迷路に、一人で挑まずに済む、誰かに付き合ってもらえるっていうのが日記を書くことのいいところで、迷っている人に伴走できるというのが、日記を読むことのメリットなのだろう。なかなかできない経験だからね。そういう意味では、僕とあなたの間には、無言のコミュニケーションが成り立っていて、ちなみに、上記の曲は日記にはまったく関係ないけれどいい曲だ。

ブログ「いらけれ」

その時閃いた。アドレスバーに打ち込んだのは「うつ病 チェック」という言葉で、表示された検索結果から、いくつか選んで自己診断をしてみる。うつ病なのは間違いないようだったし、なかには、「重度」という結果が出たものもあった。歴史には詳しくないが、これまでにたくさんの争いが、至るところにあった。それが引き起こされた遠因に、実は、時の権力者のうつがあった、なんてことも多かったのではないだろうか。うつで、食欲がなくなっていて、ご飯を食べていなかったから、冷静な判断ができなくなっていたりして。自分の状態を理解するというのは、とても重要なことだ。自分が参っていることが、不調の只中では分からなくなってしまいがちで、それが往々にして、人生の困難の始まりになってしまう。ただし、うつが分かったとして、どうすればいいかというのはよく分からないもので、まあ病院に行け、薬を飲めって話なのかもしれないけど、パニック障害だった……であるから、病と薬の関係は、すでに真剣に考えてあるのだが、パニック障害は、死ぬかもしれないという不安が代表的な症状とされていて、死ぬかもしれないというのは、人間の手の中にある感情という感じがするのに、それは病に起因するもので、さらに薬を飲めば、その不安な気持ちが治まるというのは、本当に不思議だ。薬を飲んで落ち着いているとき、それは自分というよりも薬なのではないだろうか。このようにして自分というのは、とても変形しやすいもので、まったく確立したものではない。自分を形作ってくれるような本だけではなく、つけっぱなしのテレビから流れてきたCMや、暇つぶしで開いたツイッターのタイムラインに流れていたつぶやきに、思想を形成されているのだ、気づかぬうちに。使う言葉や、なんなら敵だって、自分がくだらないと見下しているものに、左右されているということに気が付かない。本当はもっと、みんな自己検証をするべきなのだ。しかし、自己検証した方がいいような、素っ頓狂な人ほど、誰かの問題点ばかり探して、他人を打ちのめすことに一生懸命だったりするからさ。

そんなことばっか考えてるからお前はダメなんだよって、僕は僕に思わないようにした。いやむしろ、こんなことばかり考えているから、僕はまだここにいるのだろう。人という存在の謎への興味と、人々という集団への不満があったから、僕は自死を選ばないでいられた。でも、世界に対して訴えかけるつもりは、もうない。何したって無駄なだけだから、ただ少しだけここに突っ立って、望みどおりにならない苦さを噛みしめて終わりだ。