ブログ「いらけれ」

人として、それなりに頑張っていた2017、18年が終わって、本当に駄目になったことを痛感しながら、日々を生きている。コンビニの脇を抜けて、坂を下った。坂の途中には、釣具店と看板に書かれた家のシャッターは、ずっと昔に閉まったに違いない。水のない川にかかった橋を渡って、団地の間をすり抜けるように真っすぐ進む。僕は、所沢というのは、もっと遠いところだとばかり思っていた。僕の通っていた高校は、所沢の方にあって、その頃はまだスマホを持っていなかったから、線路だけを頼りに東村山の方へ、初めて歩いたときはとてもドキドキした。制服姿の放課後で、背伸びした冒険だった。歩いても歩いても着かない、しかし、どれだけ遠くても、歩けば確かに到着するということも、その時に学んだ。それからもしばしば、僕は、所沢まで歩くことはあったが、そこはとても遠い場所という印象で、やる気がある日じゃないと目的地には選ばなかった。最後に所沢まで歩いたのはいつだったか、それから今までの間に、気まぐれに歩く距離が伸びた。4キロぐらいなら、ふらっと歩くようになった。だから所沢は、とても近くなったと感じた。もちろん所沢と家の距離が近くなったわけではない。

やよい軒の問題は、本当に趣があるなと思う。詳しいことは知らないけれど。僕は、渋谷のユーロスペースの近くの、家系ラーメンの店にたまに行く。その店は、ラーメンと一緒に一杯のご飯がタダで付いてきて、さらにそのご飯は、おかわり自由だったと思う。僕は、おかわりしたことがないけど、不満に思ったことも、ずるいと思ったこともなかった。それは、そういうサービスがあることを理解しながら、自分でおかわりしないことを選んでいたからだ。だから、おかわりしない人をずるいとか、おかわりしないと損だとか思う人の気持ちが本当に分からなくて、そういう人は、世の食べ放題すべてにクレームを入れるのだろうか。それともこれは、やよい軒による計画的な炎上で、こうして話題になることで、ある種の宣伝効果を狙っているのだろうかと書くと、とても陰謀論染みるが、こんなことを考えたのは、僕が『東京ポッド許可局』を聞いていたからだ。

マキタさんが、妻に隠れてパンツを一人で洗った話をしている。環八を越えた辺りでハプニングが起きて、そこから家までの距離を、どれだけ長く感じたかという話をしている。それは、とても汚い話だが、これから僕は、そういった類の話をしようと思う。

(続)