Bullshit
JAZZ DOMMUNISTERS「Illunatics feat. 菊地凛子」
ゴールデンウィークに自由を獲得した僕は、その自由を謳歌しなければならない。だから文法やてにをはといった作法や、あるいは文章上におけるマナー、暗黙の了解からも自由にならなければならないと書かなければ、自由に文章を書くことができない僕は、まったく自由ではない。あえてやっているのだ、例えば昨日の「坂の途中には、釣具店と看板に書かれた家のシャッターは、ずっと昔に閉まったに違いない」という部分だって、おかしいということを分かっていなければ書けないのだということが、多くの人には分からない。
重要なのは比較三原則で、みうらじゅんの提唱したこの概念を、僕はあらためて調べるうちに、元TBSアナウンサーの小林悠のことを思い出したりしながら、僕は調子よく過ごしていたあの日の、目も当てられないようなあの出来事は、もう何日前のことだったか分からないが、ラジオを聴きながら歩いている今、すでに記憶になっている。
数分前までは、屁をひったつもりだった僕も、家族に隠れて下着を洗っていた。極めて慎重に、まずは便所に移動した。天井からみたら、みっともない形だったに違いない、情けない姿で下着を下ろし、足を抜いて手に持ち、視認する。脳内では、冒頭の曲の冒頭部を聞いたときに浮かんだ像が、目の前に現れている。「直前に何を食べたか、その断面から分かる」。このようにして、あるいは「自身の腸内は分からないのに、人間というものは、危機に陥るまで、そのことに思い至らない」などと思索をすることによって、ある種崇高な体験のように感じていたが、そこで起きていたのは、男が下着を便器の水で洗い、何度も水を流しながら洗い落とし、袋に包んで捨てたというだけのことだ。
老化かね、ひどいねどうも。この文章を前にして、この文章の後に、何を書けばいいのか、何も書くつもりにならないから、T字路に差し掛かった僕の、左から来た車の、こちら側の方向指示器が光ったから、ああこちらに曲がるのかと、横断歩道を渡りたかった僕は、そのまま真っすぐ進もうとしたら、運転手は間違えていたようで、曖昧な時間の後に直進してきたから、目を切らずにいた僕は既の所で止まって、車も止まって、轢かれることはなかったという、実際に起きたことを書く。なぜこんなことを書いたのか。実は、これは後日更新される日記の伏線で、しかし、「これは伏線だ」と明示されてしまった伏線は、伏していないのだから伏線とは言えないだろうから、なんと呼べばいいのだろうか。
(続)
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