ブログ「いらけれ」

これは嫌いとか悪意とか、そういうことではなくて、ユーチューブのオススメに高木豊が持っているチャンネルの真中満と話している動画が出てきたその時に、強く「見ないぞ!」と思った。見ないことに決めた。
僕はもうすでに多牌で、今あるものだけで手一杯だ。続編だけでも追いきれないほどのコンテンツ量に時間が圧迫されている。これ、みんなそうなんじゃない?
何かを選ぶということが、何かを捨てるということであるという感覚は、それは無意識的な感覚だとしても、昔より強まっているのではないだろうか。見ない、聞かない、読まない、選ばないということが、選ぶということより強い意志でもってなされなければならない。
無数の多種多様な客引きを無視しなければいけないというストレスの中で僕たちは、ただ何を選ぶかだけを考えればよかった頃よりも、確実に悩みが増えている。今、僕らに必要とされているのは「選ばない哲学」だろう、そのための言葉を。

由規も、成瀬も、大松もかー。寂しいけれどしょうがない、ではなく、しょうがないとしても寂しい、だ。それでも人生は続くし、「SHIBA-HAMAラジオ」は始まるし、「マキタスポーツ食道」」も「ラジオ寄席」も再開するし、それを楽しみに生きよう。そして、そろそろ落語活動、略して落活を再開しよう。手始めは、今月の東村山土曜寄席に行くところからだろうか。辛すぎる現実に負けてしまう前に、心休まる何かをしなければ。

新宿駅に降りた人々雑踏の中で、改札につながる混雑した階段の前で、スマートフォンに入っている最高の音楽を聞きながら上を見て、心底退屈だと思ってしまった。血の気が引くような感じがした。勘違いかもしれないけど、外側に出られない気がしまった。どこかに穴を、自分の知らない入口を、いつでも求めていなければならない。でなければ窒息させられてしまう、自分自身によって。

読んでいた本で、ミルグラム実験を例に出しながら、人間が環境に、人々が想像している以上に影響を受けることが解説されていた。それで、インターネットでは自分が環境を作るわけだから、それらは相乗効果を起こして、我々は加速度的に偏っていく。というのは、特別に新しい話でもなく、よく言われている話だし、ここでもよく書いている話。しかし、イデオロギーがまぶされた表現を、自分の主張に対立しないからといって「素晴らしい」とリツイートする文化人、知識人たちを見ていると、本当にインターネットって人間にとってダメなんだなって思う。その自分の行為について、俯瞰の視点から考えることこそ大切なはずなのに。