ブログ「いらけれ」

もう、ちょっと古いニュースになってしまったけど、バンクシーの絵画が、オークションで落札された瞬間、仕込まれていたシュレッダーで自壊したというあれを見て、その紙片の一本一本が何百万で売れて、元の絵の値段より高くなったらもっと面白いのに、と思った。と、これをツイートした後に流れてきた情報によれば、一本一本が売れているわけではないのかもしれないけど、とにかく絵としての値段が釣り上がっていて、なんならそれをオークションと結託して狙っていたのではないかという話まで出ていて、なんかこう心が引いて、全部面白くなくなっちゃった。そういうのはダサい。

例えば、僕はよく金儲け主義に対する悪口を言う。「酸っぱい葡萄」という寓話を思い出す。僕は、僕が「酸っぱい葡萄」なのかどうか分からない。それは「酸っぱい葡萄」なのに否定しまうときもあるだろうし、「酸っぱい葡萄」ではないのに概念に引き寄せられて、「酸っぱい葡萄」だと思い込んでいくときもあるだろう。これは少し前に「シャーデンフロイデ」という言葉について、ここに書いたことと似ている。つまり、自分に騙されてしまうということがあるだろうということで、自分を信じ込むことができない。
正しそうに見えるものにべったりと寄りかかることなく、しかし、あらゆることを謙虚に学びながら、自分の足で立って、冷静に思考していきたいと思っている。でも、それは不可能な夢のようなもので、偏った僕がそこにいる。

イギリスでフットボールが続いてる。お金持ちたちがボールを追いかけている。寝っ転がってそれを見ている。試合は、達人たちがお互いの力を認め合って、先に仕掛けた方が不利になるから、手を出せずに睨み合ってるみたいだった。つまり、何も起こらなかった。とても豪華な退屈は、深夜のコーヒーの味とよく合った。

どんな未来が訪れても戸惑わないようにと思って、『悪と全体主義―ハンナ・アーレントから考える』を通勤の時間などを上手く使うことによって、すべて読んだ。まあ今と繋がるところも多いし、分かるところも多いけれど、とはいえ予想通りというか、想定の範囲内というか、自分に必要なのはこの先って感じはした。ただ、ナチスが人を引き付けるためにこそ、組織構造を増殖させ、カオスを作っていたという話と、アイヒマンは単純に命令に従っていたわけではなく、法への忠誠を持っていたのだという話は面白かった。
次は『現代思想史入門』だが、読み切れる気がしない厚さをしてやがる。少しずつ読むと決め、決め事を守るように読むと決める。

ブログ「いらけれ」

「どういうサイトならシェアしたくなるだろうか」と、よくよく考えたところで、デザインの勉強なんてしたことがないし分からないながらも、とりあえず数日前にサイトをいじって少しスッキリさせたのは、いつもブログを読んでいる御仁ならご存知のことと思うが、これは、このサイトを改善し、私を売り出すための橋頭保としようという壮大な計画のの第一歩なのである。
しかし。サーバーとドメインの権利が切れるまでの一か月の間に、目に見える数字が出なければ、更新しないかもしれないのだが。単年でも5000円かかるからなあ……無理かなあ。

素人取材系番組はそんなに見ないのだが、たまたまテレビをつけたままにしていたりして、そこに映る素人が「周りに恵まれていた」と自身の幸せを語る場面を見てしまったとき、この世界のどこかに必ずいる"周りに恵まれなかった人"のことを考えてしまう。家族や地元に恵まれなかったがために、苦しい暮らしを強いられている、あるいは、そうした暮らしから脱するための思考や術を持たない人たちのこと。
人間への環境の影響は強すぎる。私たちはなぜお互いが、ここまで個別的な環境に引き裂かれているのだろう。差をつけないために、生まれた子どもをすべて集めて、一括して育てる施設を作るべきだ、とまでは思わないけど、神はあまりにも露骨だなとは思う。

昨日よりマシな服装で外に出た。日差しが本当に夏みたいで、10月なのにおかしいのではないだろうか。ラジオを聞きながら歩く。ずっと考え事をしていたけど、書くべきことは一つも見つからなかった。
道路沿いにあったワークマン。以前に働いていた会社が、とても洗脳に近い自己啓発を導入していたことと、資格を持っていないチョウさんがフォークリフトを運転していたことを思い出した。あの会社、今もあるんだろうか。あるんだろうな。いろいろなものが、ギリギリから少しアウトに出ていた気がするけれど。悪習は終わっていてほしいけれど。
車道がとても広くて、歩道がとても狭い道から、川沿いの道へ出た。夕暮れの空を、電線から鳥が飛んでいった。韓国料理屋のおじさんが、店の中からそれを見ていた。子どもたちが団子になってサッカーをしていた。閉まった釣具屋が、時代から取り残されていた。


BUGY CRAXONE「ふぁいとSONG」Music Video

いろいろあったのは僕もそうで、だからってへこたれるわけにはいかないのさって強がりながら、この曲を聞いて泣いた。もう毎日のように泣いている気がする。運と運命は、すべて僕たち蚊帳の外で決まるから、頑張ることくらいしかできないし、友達と語り合うことくらいしかできない。だから、予定のある今日を、楽しもうと思う。

ブログ「いらけれ」

東京で一番ダサい服装で家を出た。誰にも会わない日は、誰かに会わなければならない時に着る用の服を着ないから、どうしてもダサくなってしまうのだけれど、今日はそれにしても酷かった。見せられないのが口惜しい。

長袖と帽子。夏のような日差し。日焼けに弱い私。涼しい風、さっぱりとした空気。

飲み屋を調べていたら、居酒屋なのに看板を出していない店があるらしいことが分かったので、まずそれを見に行く。こじゃれた感じだった。でも、流石に客入りが苦しかったのか、小さい忘年会のメニューを貼り出していた。

友達のブッキングに成功したので、今度飲みに行くことになっているため、街を歩きながら店を探す。知らなかったとても小さなパン屋と、民家で土日だけやっている喫茶店を見つけた。あと、開店前でシャッターの閉まったいバーをいくつか。小さな規模でお店をやっている人は、本当に尊敬する。もう少し街に生きて、そういうお店を応援したい、なんなら自分も行きたいと思いつつも、なかなか。

道すがら、あまりきれいとは言えない、言ってしまえば小汚い焼き鳥屋の店内に目をやると、お客さんがたくさんいる。土曜の昼間の住んでいる街にも、知らない世界が広がっている。

ダイエーに、職場に持っていくパンを買いにいく。コンビニだと少し高いから(そんな節約しているのに、5000円分飲んだりする)。2階をのぞいたらリニューアルしたばかりで、とても混んでいた。一通り服を見て帰る。パンはいいものが無かったので、いなげやに行く。

いつも前を通る、ちょっと癖のあるシャッターの店、なんとなく気になっていたその店の名前を検索し、ホームページを見てみたら、今日のイベントにロボ宙が来るって書いてあった。ロボ宙!

自販機で「がぶ飲みコーラフロート」を買う。100円。ボタンを押したら、ディスプレイされているペットボトルの中身が揺れてビビる。中身入ってんじゃん!

いなげやの一角が休憩スペースになっていて、そこにも人がたくさんで賑わっていた。パンは無かったのでBig-Aに行く。

途中でダメになってしまったので、音楽を聞くことにする。Camp Copeの「Done」に感動した。この前飲んだ友達に勧めておけばよかったと思った。

Big-Aにウォッカが置かれていて、以前は取り扱っていなかったのになと思いながら買う。パンはなかったので諦める。

聞かないままになっていたTWICEの『What is Love?』の収録曲を聞く。90年代アニソンみたいな曲もあり、面白いとは思うものの、全体としてのパワー、クオリティは落ちているような気がした。

夕方に坂を下ると、中学生に戻った。児童相談の帰り、自転車を漕がなかったこと。大きなカーブ。夕日。相談室の先生の名前、高校の説明を聞きに行ったこと、行かなかった卒業式、高校入学、その当時の私たちの教室。記憶とは、大きな塊のようにして、ボロボロと一緒に出てきて面白いけれど、私が死んだら消えてしまうもの。

家に帰った。1万2000歩。そんなに悪くない一日だったけど、一つだけ嘘。


Camp Cope – Done (Official Music Video)

ブログ「いらけれ」

("現代の魔法使い"って、現代も何も、過去にも魔法使いはいなかったのでは……)と思った、通勤の車内で。落合陽一氏に思うところはないというか、全然詳しくないというか知らないので、ただただ、そのおかしさに気付いたというだけなのだけれど。

里村明衣子とメルセデス・マルチネスの試合を食い入るように見た。その前に松本浩代とトニー・ストームの試合も見て、テンションが上がっていたというのもあったが、本当に没入して、本当に素晴らしいと思って、本当に泣いた。
女子プロレスの歴史について無知な僕だ、彼女たちの長いキャリアのほとんどを知らないくせに、横入りで泣いていることは分かっている。ただ、全ては今に映りえる、あるいは宿りえると思う。一挙手一投足に、その細部に、培われた技術が見えて、そして端々から表出する感情がバシバシ心を揺らして、なによりも一つながりの流れを持つ試合として完成されていた。こういうものを見るためにプロレス見てんだよなって、そういうことを思った。
あのフィニッシャーを見て泣いたとき、確かに僕は横入りしたかもしれない。でも、リスペクトがあった。詳細に知らなくても、尊敬することはできる。この涙には、彼女たちへのリスペクトがあったんだ。

「Ctrl + V」という小説のタイトルを思いついた。このブログの過去の記事をカットアンドペーストして、一つの小説にしてしまうのはどうだろう。いつも面白い文章を書いてしまっている俺だから、上手く切り貼りしてしまえば、きっと面白いものになるはずだ。それを印刷して綴じて、部屋の片隅に置いといて、埃をかぶらせておいて、時には鍋敷きにしてっていうのも悪くない。


髭 “きみの世界に花束を" (Official Music Video)

僕は思うんだ 君とまたいつか
くだらない話がしたい。

これがブログではなくて混じり気のない小説だってことが、どれほど伝わっているのか分からないから、例えば誰かを殺したなどという犯罪告白なんてできなくて、別に書かなくたって問題ないとはいえ、それがとても不自由で息苦しい。
だから僕は何も言えなくなって、言葉もなくて、言うべきことも言えないまま人生が驚くべき速度で終わって、会いたい人にも会えなくなって、離れ離れになって、さよならも言えないまま悲しみだけが残ってしまうんだ。
すべてが終わったら、すべて起きたことを書こうと思う。だから今、起きていることを忘れないでおこうと思う。いつかこのことも、僕の言葉になればいいと思う。