ブログ「いらけれ」

10月3日には、友人に誘われて楽天オープンを見てきた。この前の東レ・パンパシもそうなのだが、チケットをおごってもらっていて、とても申し訳ない。なので、今度はこちらから落語をおごることにしたのだが、この互酬性はなんなのだろうか。

味の素スタジアムの隣にあるアリーナが会場。東村山からはとても行きづらい。フラッグが街にあったりするので、FC東京には親近感があるのだが、サポーターになるのは難しいなと思った。

西武多摩川線は刺激的だった。終点の是政は読めないし、目的地の多磨は漢字が紛らわしいし、電車は4両だし。駅からはだいぶ歩かなければならなくて、途中にあった大きな給食センターを見て、小学校には、特別な給食の日が月一ぐらいであったよね~、うちは図書室でバイキングしてたよ~みたいな話をしていた。そんなシステムだったことを、本当に小学生以来に思い出した。

会場に着いたらすでに試合は始まっていて、それから終わるまで、面白い試合もそうでない試合もあった。しかし、流石に9時間近く観戦することになるとは思ってはいなかった。座っていた時間が長く、腰の痛みが残った。ただ、最後のワウリンカ-シャポバロフの試合が一番面白く、一番盛り上がり、それは助かった。「終わり良ければ総て良し」ともいうが、本当にそうだ。まるでマンガやアニメのように躍動する彼らを見られただけで、一日が報われたと思った。

その日に目撃したもの、キリオスのルーティンの異常な速さやペールの激おこ、生の錦織圭、ラオニッチのサーブのスピードと音、シャポバロフが食べ続けるバナナ、解説のために現れた松岡修造と、その写真を撮る観客などについては、ここに詳しく書くことはないけれど、僕の思い出の中にきっちり収納された。

あまりにも真っ暗で人のほとんどいない道、東京外国語大学と警察大学校の間の道を通って帰る。警察大学校からは、なにか楽しそうな声が聞こえていた。そういえば、昼にここを通ったときに、胸に「NASA」と大きく書かれた服の外国人の女性が、東京外国語大学から出てきたな。

地元に到着して、軽く飲む。どこから音楽の話になったのか忘れたが、いつの間にかそんな話をしていて、お互いにマイナーなミュージシャンをオススメしあうというのは分かるとしても、なぜだか売れる前のレミオロメンは良かったよねと語り合っていた。「飲む」とはそんなもので、それが楽しい。明日も仕事だというのに、飲んだのは2杯だけだったけど、結局2時まで店にいた。

店を出て、次は落語でといって別れた。あと、「ご飯もおごるよ、いつか」と言って。それを本当にするためにも、働き続けなければならないと思った。だからだろうか、翌日はちゃんと働けた。

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「2018/10/02 今日のボイスメモ」
今週も、僕のやっているポッドキャストが更新されました。これは驚くべきことですよ、って伝えていかないと、本当に伝わらないんだろうな。だって公園の清掃のおじさんに中断させられたりしているんだから!それで病院に行った後に、わざわざ別の公園まで行って、一時間ぐらいに、もう一度取り始めたりしてるんだから。本当に「物事は思い描いたようにはならない」(参照:「Things may not work out how you thought」)って思う。
しゃべり始めたら、なんか調子よかった今回。だからしゃべり過ぎてしまって、一部カットしたりもしたけど。体の調子がいいのだろうか、頭で考える前に、口が動いていた。僕がしゃべっていて、それを僕が見ているような感じだった。こういう感じをキープしていきたい。
来週は、またちょっと別の感じになるかもしれない。そうなるといいな。楽しみにしていてほしい。

未来の予定が詰まっている。予定のことを考えると、不慮の事故や、突然の病で死んだら、みんなに迷惑かけてしまうなって思う。でも、人は死ぬじゃん?なにかしらのことがあれば。それなのに予定を立てて、会う約束をしているのが本当に不思議。この約束たちが終わるまで、生き続けていたいなって思う。

で、生きていると良いことがあるかというと、そういうわけでもない。だからさ。良いことを起こすために生きるよ。

吉笑さんと鯉八さんの「シバハマリハ」聞いた?「それなに?」って人や、未来にアクセスした人は、聞く方法もないだろうし、なんだって教えないけど、面白かったねー。「SHIBA-HAMAラジオ」へ向けて、その試行錯誤感がたまらなかった。前回上手くいかなかった点について話して、反省したりしているのが、なんかラジオを一緒に作っていくメンバーの一員になれた気がして。内容も良くて、二人ともワードセンスや発想がすごくて、ラジオ聞いてて声が出ることがほとんどない僕だけど、声を出して笑ってしまう話ばかりだった。編集も上手いし、選曲も素晴らしい、これは吉笑さんの仕事。本放送も楽しみ。早く聞こう(当日は聞けなかったけど、録音してあるので)。
追記:第一回聞いた。もうなんかすっごいちゃんとしたラジオで逆にびっくりだよ!リハでは、グダグダのときもあったのに。さすが、本番に強い。和気あいあいとした感じは、本当に仲間になりたいと思うけれど、リスナーメールのレベルが高いから、メール送っても読まれなさそうだなあと思ったし、そして、来週も飲みに行くから生で聞けないんで、それも残念だなあと思った。


片想い / Party Kills Me (パーティーに殺される! )

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新しいことをいくつか始め、新しいことにいくつかチャレンジしている。こんな積極的になるなんて、考えられなかったような自分だ。次に何をしようか、ワクワクしている。楽しまなければ損だ、というか、楽しめば得をするのだから、楽しんでしまえと思っている。今まで誰にどう思われるかばかり考えてきたけど、誰にどう思われようと、やりたいことをやるべきだと思った。成果のようなものが、それが出るのかどうかも分からないまま、とにかく心を強く持って行けよって。

何を言っても免罪される人と、何をしても免罪する人がいて最悪だ。でも、そんな人が威張れるのは、私たちが馬鹿だからだ。私たちが馬鹿だからいけない。馬鹿は死んでも治らないので、緩和していかなければならない。そのためのシステムがいる。

パニック障害が治ったか治ってないか、いや治るとかあるのか?そんなことに関係なく、バイトの面接に落ちまくっていたころ、僕は日に一度飲まなければならない薬を飲んでいなかったけど、それでもなんとかなっていたけど、仕事がないことが辛いと言っていたら、薬は日に二度になった。でも、飲んでなかったけど、仕事を始めて一応、また飲むようにした。だから飲まなかった薬が大量に残っていて、それで、薬があまってるんで新しいのは大丈夫ですって医者に言うようにして、数ヶ月なんか知らないけどあまってます、飲み忘れるときとかあるんでって言っていたら、今月から、薬がなくなったら予約して来院するように言われたから、もう二度とあの病院には行かないのかもしれない。
診察室を出て会計を待っていたら、菱形の小さな黄色い虫が、シャカシャカと長椅子の背もたれをこちらに歩いてきたので、別の椅子に移った。虫は壁を伝って、天井の近くまで行った、壁には医者が、昔に新聞に出たときの記事が飾ってあった。テレビでは新しいハズキルーペのCMがやっていて、僕はそれを、その待合室で初めて見た。

2018年10月1日放送の「東京ポッド許可局」を聞いていたら(今週の論「今でも怒れる論」も面白かった。大昔のスポーツの結果について本気で怒るおじさんたち。納得できないものは納得できない!という叫び)、TBSラジオの「今週の推薦曲」で渡會将士の『Tomorrow Boy』というのがかかった。「わっちじゃん」ってなった。
僕にはFoZZtoneで生きてきた中学生、高校生時代というのがあった。学校にも行かず腐った生活をしていたり、学校に行って腐ったりしていたあの頃、彼らの曲を繰り返し聞くことで救われていた。身体と現世が音楽によってつながれていた。ギリギリの生活が彩られていた。
それは例えば、このような曲、このような歌詞だった。

蜃気楼かな
夢の様な日々だった
今は望みを閉じて
夢なら眠って見るさ
安らかに

FoZZtone – 『蜃気楼』

引きこもりたちよ、不登校たちよ、この曲を聞きながら顔を枕にうずめて、その内に眠ってしまえ。

ブログ「いらけれ」

これは嫌いとか悪意とか、そういうことではなくて、ユーチューブのオススメに高木豊が持っているチャンネルの真中満と話している動画が出てきたその時に、強く「見ないぞ!」と思った。見ないことに決めた。
僕はもうすでに多牌で、今あるものだけで手一杯だ。続編だけでも追いきれないほどのコンテンツ量に時間が圧迫されている。これ、みんなそうなんじゃない?
何かを選ぶということが、何かを捨てるということであるという感覚は、それは無意識的な感覚だとしても、昔より強まっているのではないだろうか。見ない、聞かない、読まない、選ばないということが、選ぶということより強い意志でもってなされなければならない。
無数の多種多様な客引きを無視しなければいけないというストレスの中で僕たちは、ただ何を選ぶかだけを考えればよかった頃よりも、確実に悩みが増えている。今、僕らに必要とされているのは「選ばない哲学」だろう、そのための言葉を。

由規も、成瀬も、大松もかー。寂しいけれどしょうがない、ではなく、しょうがないとしても寂しい、だ。それでも人生は続くし、「SHIBA-HAMAラジオ」は始まるし、「マキタスポーツ食道」」も「ラジオ寄席」も再開するし、それを楽しみに生きよう。そして、そろそろ落語活動、略して落活を再開しよう。手始めは、今月の東村山土曜寄席に行くところからだろうか。辛すぎる現実に負けてしまう前に、心休まる何かをしなければ。

新宿駅に降りた人々雑踏の中で、改札につながる混雑した階段の前で、スマートフォンに入っている最高の音楽を聞きながら上を見て、心底退屈だと思ってしまった。血の気が引くような感じがした。勘違いかもしれないけど、外側に出られない気がしまった。どこかに穴を、自分の知らない入口を、いつでも求めていなければならない。でなければ窒息させられてしまう、自分自身によって。

読んでいた本で、ミルグラム実験を例に出しながら、人間が環境に、人々が想像している以上に影響を受けることが解説されていた。それで、インターネットでは自分が環境を作るわけだから、それらは相乗効果を起こして、我々は加速度的に偏っていく。というのは、特別に新しい話でもなく、よく言われている話だし、ここでもよく書いている話。しかし、イデオロギーがまぶされた表現を、自分の主張に対立しないからといって「素晴らしい」とリツイートする文化人、知識人たちを見ていると、本当にインターネットって人間にとってダメなんだなって思う。その自分の行為について、俯瞰の視点から考えることこそ大切なはずなのに。