ブログ「いらけれ」

今月も「デモクラシーCafe@東村山」に参加してきました(会のブログはこちら)。先日も書きましたが、とても楽しい経験でした。

会のブログにも書かれていますが、今回は「新聞記事を読んで対話する」ということで、「育児風景 動画が論議に」「セーリングW杯 国際連名イルカショー批判 実行委平謝り」「人間とは何か そっくりロボ開発で見えること」という三つの新聞記事から、議題を探すところからスタート。どれも面白そうだったけど、みんなで意見を出し合った結果、ロボットの話をすることに決定しました。

僕は育児の話押しだったんだけど、でも、全然不満なしというか、そもそも、私たちが社会の中で向き合っている問題っていうのがあって、生活の中で気になっていることたくさんがあって、結局どの記事にも、どれを選んでも、興味を持てるテーマを、自分の中で見つけられたのかなと思いました。

ロボットやAIが進歩していった先の人間との関わり、それで幸福になるのかというのが、やはり大きな問題となったわけですが、僕としてはロボットが人間の「他者」となることができるのか、という問題として受け取りました。

本当に進化した彼らは、人間の人間らしさ、つまり犯罪を犯したり、人を殺めてしまうようなエラーを内包していない、完璧な「人間」のような存在となることでしょう。それは、僕が以前から話している「VRジェットコースター問題」(詳しくは「I’m a soldier in the world」を参照のこと)と繋がるのだ、と気づいたときは興奮しました。間違いを起こさない(とされている)絶対安全な「人間」としてのロボットの友人で、私たち人間は満足するのだろうか。それとも、自分を傷付けるかもしれないエラーを含んだ存在としての、本当の人間を求めるのだろうか。

また、もう一つ気になったのは、AIが私たちの幸福を決定するのではないかということ。もうすでに、AmazonやYouTubeで”おすすめ”されたものこそが、AIに教えられる前から自分が欲しかったもの、自分が見たかったものだと感じてしまうこともあると思います。

自分で成長して、中身がブラックボックス化してしまったAIの、しかし、優秀であることが否定できないAIの正答率を、人々が信じるようになったとき、AIが教えてくれる私の幸福、「あなたは朝食にパンを食べることが幸せ」と言われたとき、そちらになびいてしまうのではないか。それは、AIと言われているものが、裏側でサイコロを振っているだけだったとしても、それと気付かずに、信じてしまうのではないかと。だから、AIが進歩していけば人間は幸福になる、それはAIの言葉を、神のお告げのように人間が受け取るようになり、人間の幸福をAIが決定するからだ、なんてことを考えていました。

しかし、これらの意見を、会の中で発言することができなかったのは反省点。もうちょっと勇気を出して、対話に参加していきたいなあと思います。次こそは、会に貢献できるようにって思いました。

ブログ「いらけれ」


LIBRO / 音信

今日は、新宿で編集プロダクションの二次面接があり、神楽坂のあたりから高田馬場まで歩いた。僕にとっては、少し寒くなった今くらいの季節が、歩くにはちょうどいい。間には早稲田があって、「西早稲田 公然の秘密基地」って歌詞があるから、まずは、この曲を聞きながら歩くことにした。結果的に、最後までリピート再生で、この一曲だけを聞きながら歩くことになる。

お金以前に勇気が必要な
場面の態度 問われてる実情

コレクターズの写真が飾られたカフェや、少しだけ階段を下りたところにある定食屋でおじさんが見ている週刊誌のグラビアなど、街はいい雰囲気だったけど、僕の頭の中はやはり、あの会社に受かったら行くのか、でも、なんの条件も提示されなかったしなとか、本当に編集者になりたいのかとか、そうしたことで占められていた。

次に日常に溢れるただのノイズを
アートに変えるのは どこのどいつ

そんでまあ、僕には文章があるのだと思う。こうして生きていることを、文字に変えていく。これは日記であり小説であり、そして文学であるのだということ。つまり、日常の破片を、アートに変換しているのだということ。

ひらめきの着信履歴
こうして書き残してく

歩いていると、早稲田大学にぶつかった。こんな機会でもなければ、中に入らないだろうからと、潜入すると頭が良さそうな空気。佐々木敦いないかな。会ったら「『未知との遭遇』が人生の一冊です」って話をしようなどと空想していると、すぐに敷地を抜けてしまって、大きな建物の横の、地味な階段を上がって、門の外に出た。

あらためて心と懐 温めてくために
高めていく強度

これブログに書けるなあとか、地下鉄代が浮くなあと思っている、飛びきりさもしい自分に気づく。早稲田通りを歩いているらしかった。建物の連なりの切れ目から、遠くには高層ビルが見えるのに、突然古本屋があったりして面白い。大きな交差点で信号待ちをしていると暑くて、ダウン着てくるんじゃなかったな。

お前の出番は必ずくる
今じゃない、と嘘つく 自分を見抜く

無理だ。僕は何物にもなれない。

やれる?やめる?何言われても続けてく
ふてぶてしさぶつけてく

でも、自分にとって自分は、いつも最高なんだよな。キレイな女の人は何人もすれ違ったけど、スタバのあのカップを持っている”まんま”な人を見ると、少し笑ってしまう。なんか疲れるなあと思ったら、これ坂を上っているからだ。華屋与兵衛だ。あ、串カツ田中。ちょっとずつチェーン店が増えていく。早稲田松竹がある。しかし、この曲にはパンチラインしかないな。

思考の迷路から外に出た おれ

資本主義まるだしの街並みを進むと、遠くに電車が走るのが見えた。もうすぐだ。一時間半は歩いたか。曲と街と歩行によって、頭がすっきりした。帰ったらまず、このことを書こうって思う。やくざ映画で、カンフー映画で、あるいはヒップホップを聞いて、少しサグい気持ちになって、風を肩で切るのって、現実が拡張されているよな。自分が主人公になれる気がして、元気が出た。信号は緑で、渡ったら高田馬場駅。

終わりなんてない ゴールは有って無い

ブログ「いらけれ」

しょうがねえから書くかという気になっている。書くことはないけれど。何か書いてほしいこととかあるだろうか。読者の方に、ここはひとつ尋ねてみたいところだ。僕が「このことについて、あの人だったらなんて言うだろう」って、好きな評論家に対して思うように、僕も、あなたにそう思ってもらえるようになりたいって、そう思っている。だから何かリクエストがあれば、なんでも。大丈夫、答えにくかったら見て見ぬふりをするから。

「あれがあって私は変わった」なんて、都合の良いように考えてしまう。人生に主観的なドラマを導入してしまう。本当に変わりたいと思うのならば、客観的な基準を設けること。

自分が他人に気を使っているだなんて、大声で言うことでもないし、自慢することでもない。でも、マイペースな人を見ると、ああ、なんてマイペースなんだろうと思う。もちろんマイペースな人は、なぜならマイペースだから、己がマイペースであることに気づいていないようだったりして。私に気を使えなんて、もちろん言いません。でも、私は気を使われていないなって思ってしまうときは、さすがの私も寂しくなって、私はどうやって、私だけの世界で生きますか?それは誰かを、私のように寂しくさせるとしても、それでも時として、マイペースに生きてみたいなんて思うのだった。

小学校の校舎を出て、玄関の横にあった水道の形と色を鮮明に覚えている。することになっていた掃除なんて、もちろんサボっていたし、なんなら神坂君に、良い酒蓋と一生の掃除番を交換してやったと思う。だから、それほど暑くもなかった初夏、おそらく五月に僕は、水道に青いホースをはめて、それを上に向けて虹を見た。ピンクに色づいていたことを忘れてしまったかのように緑の桜と、その虹の色も、忘れることができない映像だ。


TWICE Special ★Since Debut to DTNA★(1hr Stage Compilation)

ぼんやりと過ごしていた。おすすめにこの動画が表示されている。クリックして一時間。すっかり全部見てしまった。素晴らしい動画。「TWICE SONG」が入っているというのもあるし。いろんなことを思い出していた。積み重ねられてきた歴史。彼女たちは、まったく変わっていない。いや、すべてが変わってしまった。でも、どうなろうとTWICEはTWICEだ。そして、ONCEはONCEなのだ。何かを愛するようにならないと分からないこと。彼女たちを好きになって良かった。

ブログ「いらけれ」

今日は「デモクラシーCafe@東村山」に参加してきまして、その後に書いていますよ。
いやー楽しかったなあ。詳しい内容については、後日また書くけれども、とにかく今回の会場だった「四季の花」さんが素晴らしかったです。最初にドリンクを注文したら、予想外に美味しいおやつが付いてきて、帰りにはお土産までいただいてしまって。今度は普通に、会と関係なしに行きたいなあと思いました。
それで、参加者の方といろいろ話しながら帰って、流れでお茶までしてしまった……!楽しすぎたし、嬉しすぎでした。連絡先も交換させていただいたので、またお話しできたらいいなあ。
来月は「ブックカフェ」ということで、どっしようかなあー、本は借りてばかりで、買って読んでいないしなあ、なんて思っていたんですけど、家に帰って見てみたら、ちょうどいい本を見つけてしまったので、来月も参加できそうです。

「先輩、やっぱりこれって何のい」
ここで、僕の発言は制された。先輩は片目だけ開いて、また説明させるのかといった顔でこちらを見やって、また元の姿勢に戻った。グラウンドのセンターサークルに並んで、ややうつむいて、目を閉じることになっている僕は、今年からこのチームに加わった新参者だから、郷に入っては郷に従えという言葉もあることだし、決まりには従わなければならないだろう。しかし、僕らは何に対して、しかつめらしい顔をしているというのだ?
もちろん、今日が特別な日であることは知っている。100年以上前に、このチームが練習のときに使っていた空気の入った人形、それも誰かが、のっぺらぼうの頭に顔をいたずら書きしたせいでマスコットのようになって、ボブという名前が付けられていたそれが、破けてしまったことを偲んで、毎年、ボブの命日に行われるようになった黙とうだ。だ、と断言したが、そうらしいと言い伝えられたことがあるらしいということを、監督やコーチ、スタッフ、ファンクラブの会長にも教えてもらっただけだ。先輩からは、このセレモニーの最中は、決して真面目な顔を崩さないようにと釘を刺されたけど、でも先輩、やっぱりこれ、何の意味もなくないすか。

自分がどういう状況であれ、自分は自分を肯定したいと思ってしまう。人間とは、そういう生き物だということは承知の上で、それでもこの、すっきりと割り切れない自分の人生が、なんだかよく分からない不定形の人生が、面白いんじゃないかと思えた。込み入った説明の必要な関係ばかりが増えていく。丁寧に背景を伝えないと、誰も分からないような活動ばかりをしている。不意に蹴ってしまった石が転がって、いろいろあって誰かと誰かが恋に落ちるような、計算不可能で想定不可能な人生が、良い人生だと思う。