豊かな人生
あるのは、分かろうと"しても"分からないことや、伝えようと"しても"伝わらないことばかりなのだ、おそらく。さらに言えば、分かろうとなんて思ってないし、伝えるつもりなんてさらさらないのだ、誰も。大切にしていた宝物が壊れたときみたいだ。ああ、とても悲しい。
誰にとっても自我は檻で、檻を破って飛び出す獣で、それに閉じ込められるか、他人に牙をむくか。意識の「私」は、無意識の〈私〉の支配下にあり、自己犠牲や利他なんて夢のまた夢、〈私〉の利益しか考えていないということを理解しているにもかかわらず、そのことをすっかり忘れたふりをして、とぼけていられるという大変にずる賢い機構。
「私」と「私」が向かい合えば、衝突は避けられない。「私」たちは、〈私〉の皮を被った「私」を認め、「私」から抜け出さなければならない。それは、どうやって?「私」を抜け出したら、何が残るの?
まだ分からない、分かったら苦労しない。とにかく、まずは「私」たちが、目の前にいる「私」とのすれ違いの責任を、目の前の「私」のせいにしないで、目を逸らさずに引き受けることができたときに、やっと一歩目が踏み出せるのだろう。
手に入れてないのに失った!玄関を開けたら夏は壁で、閉める。私は何をなした?何も。それでも不十分とは言えないほどに暖かな記憶があった。冷たい水を口にした。もう十分に歩いた。蝉の声も壁のようで、耳鳴りと区別がつかない。一匹一匹を聞き分けることもできない。あまりのうるささに耳を塞いだら、一人になれたのは何年ぶりだろう、大音量のおかげで静かだ。
夏の夕暮れは、遠くで綺麗ね。誰も、もう見られないなんて知らないで、それは今年の桜も雪も、去年の紅葉も花火もそうだった。あなたのいない明日か、私のいない明日が来るなんて信じられないから、いつかまた感動するつもりで、心に留めないで忘れてしまっただろう。暮らしのなかで遠景は背景だから、とびきり幻想的でも許せるけれど、頭上の空が七色に輝けば、違和感を覚えて、死ぬまで覚えているかも。いや、死んでも覚えているよ、私は。
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