ブログ「いらけれ」

たとえば今、私が政治を語ろう、政治について語ろうとするときに、私が正しいと信じ切ることのできる後ろ盾のような、なにかを携えないで、なにかを語ることができるだろうかと考えたとき、それは無理だろうと思う。自分は自分しか知らないから、自分が一番正しいと思って発言するのは普通のことだし、それが当然だとも思うけれど、そうやって正しさを根拠になにかを言う私が、本当に正しいのかどうか、そこからしてまず自信がないし、その自信のなさを覆い隠すように、自信を持って言う私の言葉には、どこかに無理があるだろう。無理から生まれた言葉というのはえてしえ、ある種の強度を持つから、同じような正しさを信じる人にはうなずいてもらえるかもしれないけれど、絶対に分かり合えないような人からは、むしろ遠ざけれられてしまうのではないか。これまでもずっと間に立つ人生だったし、私はそれが得意だからそうしてきたのだし、強固な信念を持って生きるのではなく、柔らかい人柄の良さで誰かと誰かをつなげるのも、一つの役割だと思うし。保坂和志『いつまでも考える、ひたすら考える』の文庫版の130pには、

芸術の強さと普遍性はその弱さと特殊性にある

って書いてあります。強いから良いとか、正しいから正しいみたいな価値観では、見落としてしまうものを見逃さないように、下ばかり向いて生きているのかもしれない。

こんな風に思えるようになったのは、ごくごく最近のことだから、真面目な人間みたいに思われるとむずがゆいけれど、真面目な人間も悪くないというか、あの頃の僕は、深夜ラジオに救われた側の人間だったけれど、それが結局は邪魔していたと思うことも多くて、一概にいえないけれど、やっぱり人間関係が上手く作れないのは、人間関係を上手く作れる人に対するやっかみ、ねたみそねみで生きてきたのも大きいよねと、今の私は思う。あいつらは馬鹿だ駄目だと思ってしまったばっかりに、あいつらのようになれない、そればかりか、少し自分に優しくしてくれる人に対して、「どうせ最後は宗教に勧誘されるんだろう」と疑ってしまう。
だから、あの頃の僕の居場所ではあったけれど、でも、そんな居場所ではなくて、もっと人間らしい居場所があったら良かったのにという思いが、私には少なからずある。あの頃隣にいたヤンキーの子たちが、その後どうなったのかは分からないけれど、先輩たちに教えられた悪事をこなす彼らを馬鹿にしていた僕も、サブカル先輩に教えられた卑屈さで、結局生きづらさを抱えて生きてきたわけだから。私は、愚かなループは断ちたいです。もう21世紀なのだから。

ブログ「いらけれ」

つまるところ人間というものは、といった書き出しで、なにかを書ける気がしないのでやめる。ここ数日、思い悩むことがあって使い物にならなかった私も、スマートフォンの時計が12時を過ぎたら、さすがにまずいだろうというのは分かって、もぞもぞと布団から這い出した。
良い人と悪い人がいるように、良いことと悪いことが起きるのが一生なので、浮いたり沈んだりが普通だ。でも、これから沈むと分かっていて、楽しく笑えるほど強くないのだ。弱い羽ばたきで、大きな黒い蝶が飛んでいるのは、綺麗に咲いたツツジの周り。昼過ぎの暑さを和らげる風。
今日も霊園を歩く私です。今の時期は緑が綺麗だから、距離を開けてすれ違う人々の顔も、心なしか明るく感じられるのは、とても良いことなのかもしれないと思う。いつも通り、耳ではラジオを聞いているけれど、心には入ってこないのでやめる。こういう時は音楽だな。5月にぴったりな音楽は、本当にたくさんある。
少し汗をかいて家に着いたら、保坂和志『いつまでも考える、ひたすら考える』を読みたくなったので、読みました。これ読むの、何度目だろう。数え切れないほど読み返した本のある人生は、そういう本がない人生より豊かな気がする。何度読んでも、フロイトが出てきたあたりから分かんなくなるけど。
あらためて、自分を形作ってるなあと思いながら読んでいて、そして、読み返したくなった理由が分かったというか、最近聞いためちゃくちゃ良い言葉があって、良い言葉だなあと思っていたそれと、まったく同じ言葉が書いてあったからだ。覚えていたわけじゃないんだけど、いや、たぶん心の、身体のどこかにはあって、だから引っ張り出してきたのでしょう。明確な記憶じゃなくても、私のなかに"感じ"が残っているから、同じ"感じ"と出会ったときに、それを呼び出したくなるということ。
その言葉を言った人と仲良くなりつつあって、それで機嫌が良いというのは、単純すぎるのかもしれないけれど、とにかく、友だちを増やすのは大事だということを、トミヤマユキコ「このままならなさは、私たち人類にあたえられた「課題」」を読んで思った。

知人の星野さん(精神科医)から聞いたのですが、いわゆる心の病にとって孤独感ほど厄介なものはないらしく、リアルでもバーチャルでも「ここが自分の居場所だ」と思えるところがあるとすごくいいのだそうです。家族や、高校までの友人、あるいはインターネット上の繋がりが居場所になっているひとは、どうかそれを大事にしてください。

とても良い記事なので、全文読んでもらいたいな。誰かが自分の居場所になるように、自分も誰かの居場所になる時が来るのだろう。あるいは、複数の居場所があると感じるようになって、そのおかげで救われたりするのかもしれない。分からんけど。やっぱり、その人が生きやすいように生きるのが一番で、私には文章があるので、文章を書いています。布団は敷きっぱなしで、ていねいからは程遠い暮らしだけど、胸を張ってね。

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「死んだほうがマシ」って言い方、ありますよね。まあ、だいたいそんな感じで毎日を生きてるので、私は「生きたほうがマシ」だなんて、そう思っているわけではないです。この私に、そう思える時が来るのだろうか。この日常は地獄だから、到底無理そうだ。
だから「生きたほうがマシ」というのは、単なる言葉遊びで思いついただけ、死んだを反対にしただけのフレーズでした。でも、それだけで詩的な表現になったから、こうしてタイトルにしてみたんです。誰かがパクって使えば良いのに、という思いで(いや、すでに使われてるのかもしれない。検索とかはしてないから分からない)。
しかし今の私は、やはり外に出すことは大事なんだなと思い始めてるところで、なんか「生きたほうがマシ」って気分になってる。死んだらどうなるか分かんないし。見たいものとかあるし。冷静になって考えてみれば、「死んだほうがマシ」という言葉のほうが嘘くさいというか、そう言いながら生きる私を見つめる自己愛という感じで、なんか嫌になってきますね。「生きたほうがマシ」や、うん。
人を思うってどういうことなんだろうなーと思う春、いや、春ももう終わりですね。「青春はめぐりめぐって 夏がすぎ冬をこえたら アメージング! 何度だってフレッシュ」とBUGY CRAXONEは「ふぁいとSONG」で歌っていた。私がそれを聞いていたのは、大きな霊園のなかです。やっぱ良いなー、BUGY。「かっこつけたい年頃の はずかしい夜がたからもの」(「ぼくたち わたしたち」)とか、「センスや才能じゃなくて 本気かどうかって夜を 何度ものりこえていくんだ」(「とぼけたおとなにならないで」)とか。聞いていたの昼間ですけど。

BUGY CRAXONE『Lesson 1』Music Video
それで、今日の一曲はこれです。前に紹介したつもりだったけど、今サイトを検索したら、していなかったみたい。「Lesson 1 自信もって 胸をはって 自信もって Lesson 1 自信もって ひとりひとりあゆむストーリー」。人生はレッスンなのかもしれないですね。でも、なにを学んで、なにを覚えて、なにができるようになるのだろうか……。
綿毛になったたんぽぽを見て、花が咲いていたんだなと思う。私が花を見る前に、綿毛になってしまった。なぜだか日記のアクセス数が増えていますが、なにが面白いのか教えてくれないので困ってます。心が揺れてるのが良いんでしょか。それは分かる気がする。そういえば、先日この日記を読み返していたら、初詣で引いたおみくじに、「『心の美しさは あなたに揺るぎない自信と豊かな人生を与えます』と書いてあった」と書いてあった。本当にその通りだとその時は思えなかったのに、今は思える。

ブログ「いらけれ」

読んだもの:いまあえて主張しないといけない。複数性とは「悪」である:これからの〈らしさ〉のゆくえ #1 千葉雅也アニメ「少年ハリウッド」特集 鈴木裕斗(大咲香役)×須貝駿貴(QuizKnock)対談/ハシノイチロウ「爆音でかかり続けるよヒット曲#13『アルバム再現ライブが流行った理由』」/柴崎友香「てきとうに暮らす日記 17、18」/山下澄人「眠れぬ日々 改」1
見たもの:ダースレイダーx矢野利祐&村野智弘「オンライン教育の今後を考える」/【YouTube無料生放送】大森望 × 豊崎由美、芥川賞/直木賞選評メッタ斬りスペシャル
聞いたもの:「LL教室の試験に出ないJ-POP講座」4月25日放送分

よくある昼間に歯を磨いて、私に一番似合わない鮮やかな色の服で出かけるとき、とにかく人とすれ違わないコースを選んでいる私は、心の奥底にある怖れを自覚しているけれど、最後のところで私には関係ないだろうという能天気さがなければ、そもそも外出していないはずだ。私のなかにある恐怖と楽観は、円グラフでどちらかが大きいというものでもなくて、どちらも100%だから結果として競り合っているような感覚があり、まったく正しくないがそれは、「私は生きている」という実感につながっている。生活はすでに、スカイダイビングやジェットコースターのようなものになってしまったのかもしれない。

線路の向こうには、違う社会があると思っている。そこに引かれた一本の線が、私たちの暮らしを規定している。南口のA君とは、まるで分かり合えないという気になっている。大きな霊園の小さな入り口(それは正門ではない)のすぐ側に、高さが1.8メートル以上あるトラックは通れない小さなトンネルがある。トンネルが線路の下を潜っているから、私も線路の下を潜ると、異世界に入り込むようだ。そこには、家とカオスばかりがあって、今にも壊れそうな古い家の隣に、真新しい一軒家が売りに出されている。平日昼間に人は通らないだろうという油断で、少年は狭い路地で全力を出し、突っ込んできた猛スピードの自転車を間一髪で避ける頃には、時計の針は2時を指している。

私が底にいたのは、なにも手につかなくなってしまったからだった。朝に送った連絡の返事を待っていた。断られたらショックだなと思っていた。住宅街のなかには、ポツンと一軒家ではないが、ポツンと神社があるから私はここに来たかった。読んだことがなかったから、由来が書かれている板の前に立ち、読み、そしてすべてを忘れた。神頼みをすることはなかったが、縋りたい気持ちがないとは言えなかった。

次の神社に向かう途中で、聞いていた曲を切り替えようとして通知を見た私は、祈ってもいない神に感謝した。すぐ家に帰ってから、その友人と話すためのネタを、Wordに書き出していた。仕事でも作らないような資料を作った。そうやって生きている私を、私が嘘みたいだと思うけれど、嘘も一つの本当なのかもしれないと、私が死ぬ時には、そう思えているかもしれない。そう思えていたら良いなと思う。