ブログ「いらけれ」

一つ目の無意識と二つ目の意識がずれるから、これほどまでに大変なのであれば、物心なんてつかなければよかったのに。反目する直感と論理の狭間で私は、あくまでも一人の私として生きるように求められていて、でも、あの私の口から出たあれは、この私の言葉ではないから、それで"あなた"が傷ついたのだとしたら、その事実に、この私が傷つく。

右足は小指に、左足は薬指にマメができたので、僕はもう歩けません。だって、どちらの足を出しても痛いんだから!あの僕が出し抜けに2万歩も歩くからいけないのであって、この僕は心底うんざりしている。

今日も小雨のなかを散歩したけれど、だから少しショートカットだ。気がつくと、靴と擦れる指のことばかり考えている僕は、"お父さん指"とか"お母さん指"って言い方あったなあと思って、やはり父や母といったものには、あるイメージが固着している、それは現代でも変わらない、だから父のような何々とか、母なる何々と書いた瞬間に、類型的な表現が立ち上がってしまう……だから、目つきの悪い男をわけもなく小説に登場させられない。「目つきが悪い」と書いた瞬間に、小説内の彼は何かを企み始める。しかし現実には、ただ目つきが悪い男なんて無数にいる。現実のように、ただそうであるからそうだ、とはならない小説は、とても不自由だ。

地べたを渉猟する思考。

今は心が無理なので身体も動かないし、働かない頭では文章も書けない。辛すぎていろいろ調べた結果、境界性パーソナリティ障害かもしれないと思った。自己診断は良くないことだけど、自分を知らないのも問題だし。ときどき短い日も作っていかないと、毎日更新なんてできない。そもそも、毎日更新なんてしなければいいのに、なんでまた書き始めたのだろう。その僕については、この僕にはよく分からない。

ブログ「いらけれ」

小説に出てくる「僕」は僕ではないし、「あなた」や「君」も僕ではない。しかし、その「僕」や「あなた」、「君」が僕とすり替わる瞬間(それは大雑把な認識能力しか持たない脳のエラー、愛が生まれるメカニズムと同じ取り違えのようなもの)に、事故のような自己の更新の可能性を見ているから、僕は小説を読んでいる。小説を考えるうちに、小説の側からものを考えるようになっている。

小説を読むと、心の声がその文体になったりしますよね。え、しないって?村上春樹の『1Q84』を読んだ高校生時代の僕は、村上春樹風に描写された所沢駅のホームに立ってましたけどねえ……やっぱり変かな。

僕は真面目だから、「"対話"とか本当にいるんか、それ」と疑いつつ、そして「このままならば、いらないのでは?」と思いつつ、対話の会のスタッフをやっているのだ。こう考えるに至った理由は複雑で、個人的なもので、それに面倒だから書かないけれど(個人的な電話でなら、しぶしぶ話さないこともないけれど)。
うまく対話できない≒そこで話されていること、起きていることがほとんど実社会のそれと変わらない、言ってしまえば現実の縮小再生産でしかないという事態を避けるためには、"一人称単数"的な(?)固有性を持ち寄りながら、他者の固有性に出くわした各々が、無意識的に各々の固有性を交換してしまう(「僕」や「私」と、僕や私がすり替わる!)場を作る必要があるのではないだろうか。それこそが"文学的正しさ"……これを"文学的正しさ"と呼んで良いものなのか、僕には判断がつかないけれど。なんてことを、僕は真面目だから考えていた。

それで昨日、僕が生きていたら、『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』という、大江健三郎の小説につけられた長いタイトルが、不意に頭に浮かんだ。そして、読んでもないのになぜ覚えているのだろう、と思った。"ろうたしあなべるりい そうけだちつみまかりつ"って、たしかに口気持ちいい言葉で、繰り返したくなる語感だし、それでかなあ、なんて考えながら、お茶を一口飲んだときに、『伊集院光 日曜日の秘密基地』に大江がゲストで出たときに、この本が宣伝されていたことを、ビビビっと全部思い出した。僕の過去は、僕のなかのそれはそれは奇妙な場所に置いてあって、それがドロっと出てくるんだな、ときどき。

ブログ「いらけれ」

今日も苦しそうな 君の眼には何が見える?

SPARTA LOCALS「水のようだ」

雨が降っていても歩き出した午後、遠くの空は晴れているにもかかわらず、僕の頭の上には絶えず雲がかかっていたから、2時間以上続けた散歩の間、ずっと傘をささなければならなかった。もしかして、本当に、僕の心が天気に影響を与えているのか?だとしたら、天気さんとの付き合い方を考え直さないといけないな、と思った。

辛い。ツラーだ。ザ・ツラーだ。実は、ツラーはブラーの、ザ・ツラーはザ・キュアーのもじりで、元ネタが違うってところが超面白い。超面白いと言い切ると、本当に面白いことを書いた感じがするけれど、本当はそんなに面白くないって知っている。長い直線道路に僕一人の夏。

車は車で、人は人だった。分からないこと、詳しくないことについては、どうしても認識が雑になってしまうのが人間だから、僕は勉強を続けているし、学んだ先で書こうとしている。考えたつもりになって車輪の再発明をしたり、決着済みの議論を蒸し返したりしたくないから。

政治的正しさではなくて、文学的正しさなのではないか?なのではないか!良い言葉だなあ、文学的正しさ。ああ、文学的正しさなのだ、そうだ(もちろん、この言葉に中身はまだない)。

飛び込んできたすべての情報が、一瞬のうちに記憶へと変わり、残るものが残り、それ以外は忘れてしまう2020年の思い出は、かなり少なくなりそうだ。思い出は匂いであり味であり、サプライズでショックだ。僕たちは、ありふれた日常に内在する個別性を、脳内に留めておくことができない。毎日見ていた「笑っていいとも!」についてさえ、出演者やコーナーといった情報や、特別な場面や出来事しか思い出すことができない。そもそも覚えようとしていないことは忘れる。そして、覚えておこうと思ったことも忘れてしまう。

00年代の終わりには、語られないのではないかと危惧されていた10年代は、発明された"テン年代"という言葉によって、いくらか語られることになったが、おそらくこの20年代は、ディケイドとして語られないディケイドになるだろう。それはもちろん、コロナ以前/以降という切断線が引かれてしまったからだが、10年刻みという、本質的には意味のない区切りから、その時代の精神を見出すという強引な営みにこそ、マジックが宿ると考える僕にとって、それはとても寂しいことである。

もう蝉が仰向けになって転がっていた。だから、なにかを始めたいと思った(なにを?)。

ブログ「いらけれ」

部分的な狂気は狂気ではないのだから、狂気を全面化しなければならない。

死んだみたいな顔をしながらブチ切れていた僕は、つまり、高邁な理想を語る言葉の内実が空虚だと知って、その口に盾突きたくなったのかもしれなかった。下らない現実の再上演に付き合っている暇はないのだ。歩く速度が上がる。すべてを振り切ろうとするスピード、足を動かしていたのは爆発的な怒りだった。

そこに、いないみたいにいたかった。朝から断続的に降っていた雨が止んだのを見て、一応、傘の杖をつきながら病む街に出た。前方の上空の雲に、うっすらと青が乗っている。雲はつながっていて横に長くぎざぎざで、自由な山並みのような形をしていた。新しい始まりを感じた。神聖さ。スピリチュアル。目覚め。

運命の周りを偶然が回っている。その様子を、リードにつながれた犬が鼻で追っていた。季節は夏で、鳴き声は蝉だった。墓地の真ん中で泣いたり笑ったり、泣いたり泣いたりしていた僕は、「雨やんだから散歩。涼しい。」とツイートした。

そこから二、三歩で小雨が降り始め、一分後には立派な雨に成長した。だからといって僕は、自分があんなツイートをしてしまったから雨が降ってきた、なんて考えない。それでは、自分が球場に見に行ったら、応援しているチームが負けてしまうと考える野球ファンではないか。一人の人間の存在は、この世界に微々たる影響しか与えないけれど、僕たちは主観を通してしか世界と触れ合えないから、自分の行動や振る舞いによって現実が変わると、たやすく信じてしまう。そうでなければ、合格祈願にお参りなどしないだろう。

それに僕は、この僕の内心が天気になって現れた、なんて考えたりもしない。柴崎友香の言葉を思い出そう(「必要な時間 2」)。天気が心の影響を受けるわけがない、晴れや雨といった天気に心が影響を受けるのだ。

川かな?

小さな坂の上から流れ落ちてくる大量の水で、サンダルのなかまでぐっしょりと濡れる。その水には、波紋のような模様が規則性をもって現れていた。それほどの土砂降りで、視界は白くなる。意のままにならない世界のままならなさで、本当に目が覚める。不随意こそが"自然"なのだと。だから、人生はこれでいいのだと。