ブログ「いらけれ」

誰も読んでない日記で、大事な話なんてするかよおー、うおーという気分になっているが、怒っているのも馬鹿らしいので僕は怒りたくないのだけれど、怒りたくなるようなことばかり起こるんだ、うおー。

それに、めちゃくちゃ高い買い物をしたって話も、うっかり書き忘れている。でも、もう少しだけ秘密にしておこう。隠し事は生活の彩り……でしょ?あ、でも「めちゃくちゃ高い」って書いちゃうと、ウン十万な感じが出てしまうから、「僕にしては、かなり高額な買い物をした」と訂正しておこう。うん。

窓ガラスは夕日を通すから、肘をつく机がオレンジ色に染まっている。この教室には、もう誰もいないから、僕は一人だ。目を閉じて、たった一人の頭のなかで繰り返す。荷物の入った青い鞄を持ったのを見て立ち上がろうとした僕を手で制した後に、「じゃあな」の前に、その口から出てきた言葉を。
全員が揃っている教室で、僕は一人になった。仰向けになって空を見ていた身体に、痛くないところはなかった。部屋から出なくなったのは、時間に解決させるためだった。部屋にはパソコンがあり、本があり、CDとラジカセがあった。やがて義務教育の期間は終わった。
言うところによれば僕は思慮深い人間で、僕といると、自分を薄っぺらい人間だと感じるのだそうだ。僕が返そうとしている言葉を、聞きたくないという素振りで振り返った後ろ姿は、すぐさま扉の向こう側へと消えてしまった。
僕が、本当に思慮深い人間になれているとしても、それは生まれつきの才能なんかではない。世界や人生について考えているのは、死なないでいるための理由を探していたからだし、親切でありたいと思うのは親切にされなかったからで、積み重なる不幸と苦しみのために、僕はこうならざるをえなかった。
こうなるしかなかったけれど、こうなりたくはなかった。幸福で、底の浅い人間が良かった。目を開けたら、感傷的になったからか、日が暮れていた。帰ろう。たとえ一人だったとしても。

ブログ「いらけれ」

目が覚めたから目が覚めた。「私は私だ」という言葉は、単に私が私であることを確認しているわけではなくて、わざわざ言うことに意味があるというか、そう発話することが意味を生み出すというのは、いわゆる「コンスタティブ/パフォーマティブ」って奴で、全然新しい発見じゃないじゃん。

家に姪っ子と甥っ子が来ていて、オカリナを吹きながら仲良くしていた。もう夏休みは始まっているらしく、この期間に上手くなるつもりだそうだ(ちなみに、昨日買ってもらったばかりなのだとか)。輝きの足りない「きらきら星」の、「よちよち星」とでも表現したくなる拙さが、なんとも愛おしいのだった。

まだ言葉にできない事柄は、ずっと考え続けることだけが許されていた。そして、深く考えることが苦しみにつながるとしても許せた。私は、独りきりで考えるのが得意で、しかし行き過ぎている。あらゆる言葉に先回りできてしまう退屈も苦痛だ。だからこそ、これまで思いつかなかったような真実、その断片の煌めきにお目にかかりたくて、知らない世界に分け入っているのだろう。「あなたの言葉が、私に届いたその時に、すべてを理解しました」。そのような瞬間が、本当に私に訪れるのだろうか、という疑いは拭えないとしても。

「難しいことを考えているうちに分からなくなって、簡単なことを間違える」というのは、なにも観念的な話ではなくて、将棋を指しているときに感じたことだ。先の先を考えた結果、うっかりタダで飛車を取られたりする。だからといって、先のことを考えないようにすると、単純に勝てない。つまり、難しいことを考えながら、簡単なことを間違えないのが大切なのだ。結局は観念的な話になる。

スマートフォンをアップデートしたら、ダークモードというのが使えるようになったので設定したら、それまで白かった様々なアプリの背景が黒くなった。目に優しいのか、省電力につながるのか、よく分からないけれどとにかく、受ける印象は大きく変わって、ツイッターを開くと気分が沈むようになった。ああ、今年の夏はダークモードの夏だ。

ブログ「いらけれ」

部屋だから、レンジで温めた冷凍のカルボナーラは啜りながら食べている。家だから、温め終わったカルボナーラには、胡椒と一味唐辛子とマヨネーズをかけた。とにかく刺激が欲しい、あと、ソースが少なくて水分が足りない感じがするから、しっとり感を足したい。

テレビには将棋盤が映し出されているが、私はパソコンの前に座ってユーチューブを見ている。京都大学人社未来形発信ユニットのオンライン講義だ。「パンデミックと倫理学」という動画を見ながら、全体の利益のために、ウイルスに感染しているかどうか分からない人を船に閉じ込めたことについて、私は疑問を抱かなったけれど、全体の利益のために、一部の個人にしわ寄せがいってしまうその構造は、経済合理性のために医療を打ち切ろうという考え方と、容易につながってしまうのではないかと思った。

それはそうと、萩山駅の近くを歩いていたときに、「多様性が大切」という言葉が嫌いな理由が分かった。「多様性が大切」をおためごかしだと思ってしまうのは、"多様側"ではなく"普通側"から放たれた言葉だと感じるからだろう。というか、"普通側"だからこそ、「多様性が大切」と言えるのではないか、と。
もちろん"多様側"も多様だから、誇りに思えるような違いもあるだろう。しかし大方の違いには、そして"多様側"に分類されることには、耐えがたい苦しみがあり、「"多様側"ではなく"普通側"が良かった」という、なんとも素朴な気持ちが無視されている気がしてしまう。
言うまでもないことだが、"多様側"/"普通側"という二分法ではなく、それぞれが違うことなんて当然なのだから、もともとの多様さが均されることなく、それぞれがそれぞれに、そのままそこにいるから多様だ、という状態が望ましく、そうした意味での「多様性が大切」なのは理解している。それは分かっているけれど、現実はそうなってないよね、というのが僕の感覚。

気がつくと、これから暗くなるにもかかわらず、また墓地の中を歩いている。自転車に乗った男の子二人組が向こうからやって来た。片方の子が手を伸ばして、並んで走るもう一つの自転車のハンドルを支えている。通りすがりの僕には分からない、彼らの物語がある。イヤホンからは音楽が流れていて、最終的に人間を救えるのは音楽だけなのではないか、と思う。上空には、昨日よりも大きな月が出ている。あの光が、月の発したものではないなんて、とてもじゃないが信じられない。「瑠璃も玻璃も照らせば光る」というから私は、瑠璃でも玻璃でもないということだな。

ブログ「いらけれ」

今日も人間をやっている、というつもりになっていた。それは、スマートフォンに表示される苦しみに、心にもない優しい言葉を返してしまうような、人間。こうすれば「優しい人」という評価になる。それを分かって、その通りに行動しているだけで、本当に優しい人になれる。優しさのマスクを着ければ、誰もがマスクマンになれる。

いじめたい気持ちと助けたい気持ちが同居しているような、愛と憎しみが共存しているような瞬間はたしかにあって、その形の心を感知したもう一人の私の心が、不思議なほど満たされるのは、『いろんな気持ちが本当の気持ち』(長嶋有の本のタイトル)だからなのだろう。そうそう、今日は『安全な妄想』を読み終えた。多くの人は、その着眼点の鋭さに感嘆するのだろうし、それについては私も同感なのだが、個人的には、文章の湿り気のなさの方が印象に残った。乾いているというのは、けっして冷たいということではなくて、ユーモアに加えてペーソスが感じられるエピソードも含まれているのに、全然ベタッとしていないところがすごいなと思った。

私も、私の文章を乾かしたい。そのためにはまず、私の心を乾かさなければならない。銀行の裏の駐車場の、日の当たらないところに生えた鮮やかな緑の苔と同じぐらい湿っているからな、心。天日干しか?

情に厚いのと湿っぽいのは表裏一体で、長所が短所になり、短所が長所になるというアレだ。一方だけをゲットしようというのは虫がよすぎるのであって、心がさっぱりしている人は素っ気ないからな。やっぱり干すのはやめとこう。

もう蝉が全力です。昼間に野球があって、どうせ負けるなら見なければよかったと思うけれど、それでも見ないと劇的な勝利も見逃すから仕方なくテレビの前にいて、夕飯を腹に入れてから散歩に出かけた。やっぱり涼しくて、とても助かる。蝉の全力具合に、少し励まされるようなところがある。夜に変わる空は美麗で、まるで絵のようだ、という言い回しは面白なと思う。風景画が、ある日の景色を閉じ込めて、遠く離れた部屋に運び込むものだとしたら、景色が先にあって絵があるわけだ。しかし現実の景色は、絵のように常に美しくはないから、曇ったり雨が降ったりする空は、絵のようではない。絵のような空には大きな月が出ていて、「月が綺麗ですね」と思った。