ブログ「いらけれ」

※WordPressが更新されて困っている問題、とりあえず「Classic Editor」というプラグインを導入することで、ひとまず以前の入力環境を手に入れることができたので改善されました。もしお困りの方がいらっしゃいましたら、導入してみては?

「カップヌードル 北海道ミルクシーフー道ヌードル」
今年の11月から発売されているという、このカップヌードルの新商品。もちろんポテト感があったりするので、ただ牛乳を入れたものとは違いますが、あの、シーフードヌードル(よく食べます)に、牛乳を入れるのって普通ですよね?まあ、もうインターネットとかでも散々こすられている食べ方ですし。そりゃ僕も、食道の道場生として試しておりますし、ほぼ毎回のように入れて作っておりますから。せっかくの新製品ならば、もっとアバンギャルドな、意外性のある組み合わせがほしいところですよね。ごま油味とか?

『荻上チキSession-22』を聞いているから、聞きたくもない、大臣のひどい答弁などを聞くわけだが、そういう国会の音声を聞いて思うのは、やはり二人称的な問いかけの正しさと、それを聞いた聴衆がどう捉えるのかというのは、まったく違うということだ。どれだけ正しく詰問していたとしても、第三者がそれを聞いたときに、質問者側に悪い印象を抱いてしまうということはあって、だから、真の意味で議論に力を持たせるためには、聴衆に訴えかけるやり方を考えてほしいと思う。しかし、そうやって聴衆の感情や印象に訴えかけようとする、ある意味において詐欺的な手法を、一番使っているのが誰かといえば、権力を持っている彼らなわけで、基本的には、僕らが賢くなるのが望ましい。

三年間一緒だったのに、夢のなかに出てきた高校時代の同級生の名前を、夢のなかで思い出すことができなくてショックで、そして今も思い出すことができていない。積み重ねたたくさんの瞬間も、そこにあったものも、起きたことも、取っておくことなんてできなくて、止めることのできない大きな川のような時間によって、すべての存在が流されていく。可能ならば外側に立って、ずっと思い出を保ったままで、川の流れを、たばこを吸いながら眺めていたい。


SPARTA LOCALS「ハート」

今、感じてるイラだちも 良い思い出とすり変わる

いつかこうして、書いていることも思い出になって、ルールが変わって、好きな番組も終わって、ミュージシャンも芸人も死んで、親も死んでしまって、愛すべき暮らしが、いつまでも続くわけがないことを思うと切なくなる。心が三人称視点になって、すべてが虚しくなる。

嘘だらけ バカばかりさ だけど踊れ

ブログ「いらけれ」

あー、あー、あー、読めていますでしょうか。いやー、Wordpressを更新したら(5.0になったそうですよ、奥さん)フォーマットがだいぶ変わっておりまして、、、めちゃくちゃ使いづらい感じをしております。困ったなあ。文字数も表示されないし、文字入力する度に、なんか画面が白くちらつくし、かなり厳しいですね。12月7日の22時だっていうのに!いろいろ衝撃的で、書きたいことを忘れてしまった……ブログ最大のピンチだ。と、いうことで、これは一旦グーグルドキュメントで書かれているということを頭に入れながら、読んでいただくといいかと思います。ああ、辛い。

そういえば今日の昼間に、このサイトのお問い合わせから、初めて日本語のメッセージが来ていて、topmediaの鈴木幸子って人から、広告を出します、お金出しますみたいな内容のものだったんだけど、秒でググったら、やっぱりこれスパムというか、メールしても返事が来ない系のやつらしい。てか俺の人生、こんなことしか起こらねえのかよ!

出版社から、名前もなく「各位」とだけ書かれたお祈りの手紙が届いて、あり得ないなーと思うと同時に、ああ、またこのことを書こうと思う自分もいた。すべてをネタにしたいわけじゃない、ネタにでもしないと、やっていられないだけだ。

入社二年目の僕に、初めてできた後輩は女の子で、まあ、世間的に見ればそれなりにかわいいのだろうということは、彼女によって社内の男たちが、それまでと何一つ変わりないつもりで、いやらしく浮足立っていることからも分かるわけだが、僕はどうしても中学の担任、いつもジャージの体育教師、松岡修造に憧れて熱いメッセージを言おう言おうとする吉田に、どこか似ていることに気づいてしまったときから、「顔、吉田の風味が入っているなあ」としか思えなくなった。

僕が「つくりたい本」というお題で、書いた作文がこれだ!!


普段の生活のなかで「つくりたい本」がよく浮かびます。例えば、このほど人気ドラマの『相棒』が、薬物依存の表現で物議を呼びましたが、「フィクションは現実の丸写しではない。フィクションであることを明言しているなら、どんな表現をしてもいい」という考え方と、「たとえフィクションであっても、特定の人々に対して、偏見を助長する表現はやめるべき」という考え方は、どちらにも理があるように思えます。この先には、劇中で犯罪を美化して描くことはどうか、ヘイトスピーチが出てくるものはどうか、といったことも問題となるでしょう。こういった日常の問いを、専門家の知見で捉え直すような本を作ってみたいです。
また、今年読んで心に残った本が『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』というアニメーションの表現史を扱った本だったので、例えば、アニメキャラクターに付された声に、よりフォーカスして表現史を辿るような本も手掛けてみたいです。


受からなかったけれど、自分の考えは変えないし、自分の書いたものには、少しだけ、誇りを持っている。

ブログ「いらけれ」

プロ野球の、契約更改って本当に好き。人の年俸を知るなんて、なんて面白いコンテンツなんだ。こちらから見て、思ったより高い、安いもあるし、選手も金額に対して高い、安いを言ったり、ときどき保留する人が出てきたり、自由契約になる人もでてきたり。僕は、お金も資本主も嫌いだけど、お金に右往左往する人間の話は好きだよ。あと、お金は嫌いだけど、ないよりはあった方がいいから、ください。

諸事情もあって、もちろんブログもそうなんだけど、平日の午前中とかに、家のパソコンで文章を書いているわけだけど、文章を書いているときにラジオを聞くようになって、TBSラジオなんだけど、今までは聞いていなかった午前や午後の番組を聞いて、「ああ、僕のブログも、こういう風になりたいな」って思った。つまりね、文章を書いているときは、脳のほとんどを文章を書くことに使っているわけで、聞いてるといいながら聞いていないというか、耳にしつつ、半分ぐらいは内容が入ってきてないというか、でも、その邪魔にならない感じがいいなって思ったんだ。で、ちょっと詰まったとき、休憩したときには、まあまあ面白くて、ときどき、すごく聞き入ってしまうような内容もあって、みたいな。だから、僕のブログも、スマホで音楽を聞きながらとか、ラジオを聞きながら読み流して、そんなに集中するものでもなくて、でも、読んだら読んだで、その人のなかに何かが少し残るようなものを。

大げさに言うと、感動に打ち震えながら、これを書いている。みなさん、ホットミルクって飲んだことあります?いや、あるよっていうね(笑)ほんとホットミルクなんて、何年ぶりに飲んだんだろう。忘れてしまったくらい昔のことだ。電子レンジに「牛乳」というボタンがあることも知らなかった。なにか温かいものを飲みたくって、それで何を入れるでもなく、ただ「レンジOK」というシールが、5年以上前に買った時から貼りっぱなしのコップに牛乳を注いで、チンしたものの、口を付けたら一度目はぬるかったから(「牛乳」というボタンなのに!)、二度レンジにかけて、パソコンの前に座って、ゆっくりと飲んだら……ほらあなた、もうホットミルクが飲みたくてしょうがないでしょう?

TBSラジオといえば、スペシャルウィークをやめるらしいね。『深夜の馬鹿力』でネタ(あの、リスナーを仲間にする感じが、深夜ラジオの手口だよなあと思った。分かってる側に付きたい、付くことが嬉しいという心理)にしていて、確かにスペシャルなゲストやプレゼントで聞く人は、結局いつも聞いている人じゃないわけだし、聴取者の数字を知りたいというのならば、普通の回で調べるべきだとも思うし、一リスナーとしても、スペシャル回より通常回の方が好きだったりすることは多いけどね。「スペシャルウィーク」をやめても、なにか番組自体や出演者に特別なことがあれば、スペシャル回もやるんだろうし、まあいいんじゃないのとは思うものの、これは前にも書いたけど、野球中継をやめたことや、『粋な夜電波』の打ち切りも合わせて、局の内側で何が起こっているんだろうというのは、すごい気になっている。

ブログ「いらけれ」

流通量自体の増大という問題は、間違いなくあると思う、言葉の。だから、明らかに不誠実なことを言っている人や、嘘をついている人、問題発言を繰り返す人が、多くの社会問題と言葉に埋もれて、薄まってしまっているのではないかと思う。大きな問題を、「大きな問題だ」と騒ぐことで、問題が矮小化されてしまうという構造があるわけで、やっぱり別の戦い方をしなければならない。

思い出すことと、繰り返すこと。動物のなかで人間は、動物らしからぬところがあるとすれば、思い出す必要のないことを思い出し、繰り返す必要のないことを繰り返すという、神経症的な性質ではないだろうか。

無理してでも読まないと、あ、書き忘れていた借りた本。『エンタテインメントの科学』って奴で、未来の僕のためになるかなあと思って。ほら、僕の目指すはエンターテイナーじゃない?サイケデリックな表紙のわりに、中身はまじめな感じなんだよなあ。というか、読み終えられるかなあ。また延長してしまいそうだ。

東京ポッド許可局で「東村山問題」が話題になっていたね(投稿者の局員さんのことは、以前からネタが読まれるたびに「東村山だ」と気にしてた)。僕としては、誰がどこに住んでようと気にならないし、東村山であることも恥ずかしいと思ったことはないかな。それこそ昔は、市外局番が03じゃないことが恥ずかしかったとか聞くけど、ぜんぜん、いや僕が特別に能天気なのかもしれないけど、何も思わないし、何かを思ったこともない。

また書けるようになって嬉しい。ここからもう一度、私が始められる。創作行為だけが、この世界の輪郭を浮かび上がらせ、解像度を上げる。この終わらない映画の、たった一つの動きも、逃さないように。

ラジオ番組が十周年とか、二十周年と聞くと、とてもすごいことのように感じるのは、番組っていうのが、入れ代わりが激しいからということからも、そう感じるのだろうが、でも、おじさん40年同じ会社に勤め上げました、みたいな、そう考えると、そっちの方がよっぽどすごいことに思える……てか、それが当たり前みたいになってるけど、そういう社会のシステムができあがって100年たってないわけで、ラジオが普及するようになってからも、まだ100年たっていないし、でも、なんでか分からないけど、ずっと、このままこうして、同じルールや仕組みのなかで暮らしてくんだっていう”感じ”が、はっきりとあって、そのなかで最適化しようとか、人生設計をしようとか考えるけれど、実は、はっきりと分かる形で変わってなくても、システムは変わってるし、変わってく。でも、それでも、このシステムが続くという”感じ”の方が、人々にとってはリアルなので、人々は変わらないと思って生きる。