ブログ「いらけれ」

ゴールデンウィークのせいで仕事が溜まっていた。少しずつ片付けても、片付けたそばから別の仕事が振ってきて、終わりそうにない。朝から晩まで、大げさではなく休みなく働いていた。疲れた。

ファミマの「ガトーショコラ風チョコ」で命をつないでいた。おいしいものを食べると元気になる。これとプロテインドリンクで三大栄養素を補給しながら、ずっと働いていた。疲れた。

かかってきた電話の対応をしながら、別の案件のデータをエクセルに打ち込んでいる。まともな人間のフリをして、ペラペラ話している私を滑稽だと思う。自分ではないみたいだ。

パソコンの画面を見て、一日が終わっていった。私は何がしたかったのか。何をしたくなかったのか。そもそもしたいことなんてあったか?考える余裕も気力もないまま流されていく。

東京ドームから大勢の人が出てくる。皆が電車に乗り込む。ユニフォームの人がいないから野球ではなく、グッズを身に着けた人がいないからアイドルのライブでもなく、若者は少なく、皆が普通の格好をしているから、ツイッターで検索したらミスチルのライブだった。「国民的」というのは、こういうことなのか。特徴のなさが、なんだか好ましかった。

各々が各々で生きて、各々で死ぬ。自分もその内の一人。親が死んでからというもの、死を身近に感じるようになった。死ぬまでにできることをしたい。今すぐできることだってあるのに、面倒に思ったり勇気が出なかったりして、諦めたりしない。そういうのはもうやめる。

編集者になりたかった、というわけでなかったが、なったものはなったし、もう少しこの仕事を続けるつもりでいる。この世は地獄よりも終わっている場所だ、だからこそやれることをやったらいい。間違いないよ。

ブログ「いらけれ」

仕事終わりに東京ドームの三塁側でヤクルトファンを謳歌できるほど水道橋に職場があって、しかし仕事は終わらないのである。休憩する暇もなく、じっと手を見る隙もない暮らし。

なんで生きてんだろか。分からなくなりそうだったから昼休みを捻り出して歩くと、すぐに神保町に着いて、通りすがりにブックカフェに入って見る棚に「頭の体操」と「人間失格」が並んでいる。

これまで出会わなかったであろう二人だ。並べちゃいけない感じがする。目に入った"体操"と"失格"が、対義語にさえ思える。

「頭の体操」が呼び起こす微温的な向上心と「人間失格」がイメージさせる前のめりなアンニュイがぶつかっているのだ、私は分からなくなった。

めまいで店を出ると夏さながらの日差しだ。そうだ。私には、体操も失格もいらない生活があったのだ。まあ、これはこれで悪くないか、と思った。

ブログ「いらけれ」

小説の登場人物ががんになり、私は「身体に力が入らない」という震える声を思い出した。私は、その言葉になりきらない声を聞いた瞬間に理解していた。世界は悪い列車で、頼んでもいないのに発車して、それぞれの苦しみに向かって進み続けているということを

仕事が終わって、スーパーの惣菜コーナーで、全部の弁当の中身が土か粘土みたいに見えて、とても困った。食べることを拒否したかった。唐揚げ弁当を買って食べた。暴力を振るっているような、あるいは振るわれているような気分になっていた。

生活が苦しく、人生が苦しく、いずれ訪れる死が苦しいのなら?それでも生きる理由もないのなら、わざわざ生きる意味もないのだから、いつまで生きていられるのだろう。

去った昨日より生き抜く今日よりもマシな明日が、どこにあるのか、私にはまだ分からないでいる。

ブログ「いらけれ」

今から驚いた話をします。

その朝の私は新宿に着くまでKindleで、佐々木敦『「批評」とは何か?』を読んでいました。

この本を読むのは4回目ですから、すでにたくさんのハイライトが入っていました。過去の私と一緒に読んでいるみたいでした。私の人生の課題に取り組むためには、「批評」についてもう一度考えなければならない、思考を更新するためにこそ原点に帰るべきだ、と考えていました。

『小説の楽しみ』(水声文庫)という非常にベタなタイトルの本があって、二〇〇五年だからほんとに最晩年、国立のロージナ茶房っていう喫茶店で三回続けてやった講演を本にしたものです。これは本当に素晴らしい本です。

佐々木敦『「批評」とは何か?』

私は乗り換えのホームで、この部分を読みました。この本こそ私が前回書いた、古書防波堤で買った「小島信夫の小説論」でした。とても驚きました、鹿島さん、これは……スピってますか?

でも私は「スピリチュアルコーナー」に投稿しません。なぜなら私は、この本をすでに3度読んでいるのだから!!!

言ってしまえば忘れていただけですし、中で取り上げられている小説が丁度並行して読んでいた絲山秋子『袋小路の男』だったり、次に読み始めた長嶋有『電化文学列伝』(ちなみにこれも再読)で柴崎友香『フルタイムライフ』が扱われていたり、という例からも分かる通りですが、これからとても大事なことを言いますが、私は「界隈」をぐるぐるしているだけなんです。だから読んでいる本に、買った・読んだ本の名前が出てくるのは当然のことなんですよ。

とはいえ、やっぱり偶然の導きa.k.a.運命を感じないではいられないわけですが、それもまた一つの当然なのだ、という結論に至りました。

無数の本の中から私が選んだ本同士が、一つの星座をつむぐ。それは、他の誰でもないこの私が、考えるべきことを考えるために、調べて探して読んで学んで、賭けているからです。人生が、痕跡を残しているのです。

つまりこれは幸運、ラッキーではなくて幸福、ハッピーなお話だったのですね。私がちゃんと生きられているみたいで、良かった。