ブログ「いらけれ」

頭の真ん中で、右脳と左脳を擦り合わせるイメージをした。日記とは、そのようにして書くもの……だったっけ?

私たちの世界が、私たちの言葉でいっぱいになる。私たちみたいに、愚かな者どもの言葉で。

音楽を聞くことですら、厳しいと感じた。

手前で急に進路を変えた女の人に先を譲って、乗ったエスカレーターのステップで、お金が欲しいと思った。

何もできずに死んでいくのに、人生の長さは丁度良い。

クロマニヨンズの甲本ヒロトと真島昌利がラジオに出ていたと知って、半分流しながら聞いた。落書きのように曲を作ると言っていたように聞こえた。それは結局、保坂和志が常々言っていることと同じなのだろうか。違うのだろうか。

大抵の人は結局、砂金探しを諦めるということなのだろうか。そのようにして書くということは、川底の砂をふるいにかけて、小さな金を見つけるようなものだ。金塊じゃない。大した金にもならないというか、金にするつもりすらなく、最後にはまた、集めた金を川に流してしまう。上手くなるつもりもないが、やめるつもりもない。ただ、その輝きに心を奪われている。それだけで、続けてしまう。

ずっと売れずに、売れないまま解散したバンドの、売れなかったアルバムの一曲目が、スーパーマーケットの一角で再生された。機械がランダムに選んだその曲で、胸がいっぱいになって泣いた。間違って配られたものを、間違って受け取ってしまったと思った。すべてが終わった後に、こうして感動していても、一銭にもならないことが、とても悔しかった。こんなはずじゃなかった。もう何も、間違わないことを願っても、仕方がないと分かっているから、やっぱり泣くしかなかった。

このビル全体で、ハロウィンをするらしい。「ハロウィンをする」って何だろう。ハロウィンをしないし、したこともないから分からない。ハロウィンといえば、『カウボーイビバップ 天国の扉』だ。最近見ていないけれど、一番に思い出す。かなりシリアスな作品だが、でもヴィンセントってさ、ソリタリアが云々言ってるけどさ、部屋で一人、ウイニングイレブンと将棋ウォーズばかりやってる俺と同じじゃんって思う。冗談が通じない世界なので、一応書いておくけれど、もちろん同じではないし、同じだと思っていない。

思ったことを言っているつもりで、思っていないことを言ってしまう前に、本当に思っていることを探り当てるまで、僕は何も書けない。時間を掛けている。人生を賭けている。

(人として欠けている)

ブログ「いらけれ」

「探さないでください」という気持ちでどっか行く、そして、恥ずかしげもなく帰ってくる。ビールを何杯飲んだのか、日本酒はどうか、頭ははっきりしていても、背中が重い。身体は嘘を吐けない。

バタバタと身の回りの整理をしながら、残り物の、昨日のシチューを温める。ぐつぐつを見て、ピンと来る。絶対に美味しいと思って、卵を割って入れる。予想外のことを、自分が始める。パックのご飯を温めて、盛って、その上にかける。人前ではできないことを、自分が始める。醤油をかけちゃったりして、というお茶目さも出していく。見ている人はいない。温まりすぎたじゃがいもで、舌を火傷する。とろみのせいで、最後まで冷めなかったシチューの味は、一切記憶に残らずに、熱かったということだけを覚えた。

ラジオを聞きながら歩いていた。聞きながら、海星(ヒトデ)不足というのを思い付いた。あと終末(週末)思想。「伊豆のロドリゴ(踊り子)」というのはどうだろう。「カードローン」の中に、車(カー)とドローンが隠れているというのも気が付いた。やっぱり、頭もおかしかったのだろうか。確かに、鏡に映った自分の顔の目つきは、ギラギラしていたかもしれない。

本屋へ行くために、東村山駅を通ると、箱の中に傘がたくさん置いてあるけど、僕は驚かない。なぜなら、久米川駅にもあったからだ。「アイカサ」という名の傘のシェアリングサービスで、LINEでQRコードを読み込めば、1日に何回でも、税込み70円ですぐに傘を借りられるという。
ほほう、と思う。世界がシェアシェア言っているのは知っていたけれど。傘を買うわけではなく、傘の機能だけを買う。よく分からない花柄や、薄すぎるビニールと細すぎる骨、やけに大きい柄といった、傘一本一本の差異は、所有していないのであれば、いらないと言えばいらない。とはいえ、あの無味乾燥とした傘を差して歩くのは、おしゃれを楽しむ皆さんは、嫌じゃないのかな。
デザインするということも、それらを選んで手元に置くことも、お気に入りにすることも、便利さに塗りつぶされていくのだろうか。サブスクを使うようになってから、CDケースを開ける時のドキドキ感を味わうことは、めっきり少なくなった。しかし、良いも悪いもなく、それらは便利で、せっかく便利になった世界で、色のない傘を差していくのだろう。

日記だけ書いていたい。それだけで生きていたい。人生が辛いから、どうにかしたい。現世では、絶対に上手くやらない(いや、やれない)。遊んでいる時間を、とにかく長くしたい。靴に入った小石が痛い。嫌なことも忘れない。それも人生の一部だから。

ブログ「いらけれ」

久しぶりの面子で飲みに行って、平衡感覚を失うまで痛飲したのに、その後にカラオケまで行って、やっと帰宅した午前3時に、これを書いていない。壁にかかった時計の針は、すでに12時を指してない。壁に時計がかかっていない。パソコンの右下で、「12:34」と数字が並んでいるというのは、本当だ。

日記に置いていかれている。あるいは、日記が追いかけてくる。着替えることも、水を飲むことさえできずに、ばたりと倒れ込んで、眠って、そんな夢を見た。昨日の日記だって、「10.6あったこと」にするつもりだったのに、間違えていることに気付かず更新してしまった。日々、「こんな国は嫌だ」大喜利の答えを出してくるような場所で、余裕をなくしている。

Mリーグの最新回がビデオに無い問題、番組表を上の方へ、時間を戻っていって、「前の日を見る」を押し、前日の番組表から録画を見るという手段もあるぞ。あるぞというか、今、そうやって試合を再生しながら、これを書いているんだけど。

始められるときに、始めるしかないよ。まず何よりも始める、そして、その次に続ける。後は、急坂を下る時の、前へ前へと勝手に出る足のように。

真夏日になるという予報だったが、そこまで暑くなかった。僕は、人間らしい生活について考えながら歩いていた。工事中のマンションの囲いには、第一期、第二期に売り出された部屋は完売、第三期の販売が開始したと書いてある。隣にある二階建ての駐車場は錆びている。川面を草が流れていく。上流のどこかで、除草が行われている。何かが終わって、始まって、何かが変わって、変わらない。
新しくパン屋ができたという噂で、大人二人でいっぱいになってしまうような、狭い店内を覗いた。先客がいたのでそのまま真っすぐ、踏切を渡って歩いていくと団地がある。団地は、それ自体で完結していて、また線路が通っているせいもあって、出口がない。よそ者のエイリアンとして団地を抜けて、左に大きく曲がる道の途中、とても短い階段の下に猫がいる。僕は猫に詳しくないから、のんびりと毛繕いをしているように見えた、としか書くことができない。そこで生活している猫の方が、そこでは偉い。だから僕は、少し立ち止まった。しかし、ここを通って右に行かないと遠回りなのだ、申し訳ないという気持ちを前面に出しながら、一段一段降りたけれど、猫は警戒した表情をして、立ち上がり、歩き出して、民家の門を潜り、安全圏に入った後も、こちらの様子を窺っていた。悪いことをしたと思った。良いことだけをしたいなと思った。

ブログ「いらけれ」

この前の日曜日には、ナツノカモ低温劇団本公演「ていおん!!!!」へ行ってきた。予約するつもりだったのだが、ギリギリでいいやと思っていたら、ローチケの予約終わってしまっていた。その後も、メールで予約を受け付けていたのは見たのだが、メールを送るのって結構心理的なハードルが高い。送ればいいだけなんだけど、手間に感じられてしまって。
だから、確かなものは何も持たずに、手ぶらで電車に乗っていた。そういう気分で、夜公演に向かっていた。車内では、『みんなの「わがまま」入門 』を読んでいた。ほー、と思うこと多し。電車の方が集中できる感じ。西武新宿駅で降りて、少しだけ急いで、人が多くて、まっすぐ歩くのが困難な道を、15分ぐらい歩く。「All Blacks」と書かれた黒い服を着た人を何人か見かけた。昼間に試合をやっていたようだ。
急いだ甲斐もあって、開場数分前にプーク人形劇場に到着する。扉の前には、すでに列ができていた。当日券を買って、席に向かうところで、後ろから声をかけられた。久しぶりに会うお友だちだった。並んで座って、楽しく談笑している内に、劇場が暗くなった。
やすさんの服パツパツ問題とか、舞台に出演者が腰掛けるシーンが真ん前でビビったこととか、いろんなことがあったけど、今回もやっぱり面白かった。上手く言葉にできる気はしないけれど。
コントでも演劇でも落語でも、実は小説でも、そうだと言った瞬間にそうなるということがあって、つまり、「僕は人間そっくりに作られた精巧なロボットだ」と発した前と後で、目前の誰かが、著しく変化するということがあって、また、「ここは虹の上だ」と説明されれば、私たちがそれを受け入れて、そこは虹の上になる。その不思議さに自覚的というか、何を受け入れさせるのかということについて、非常に意識された作品だからこそ、言葉にならない面白さが宿っているのかなと思った。
買わないで後悔した前回の台本と、今回の台本を手に入れて、ピンバッチは売り切れていた。しゃべりながら帰って、ちゃんと頑張らないとなって思う。書くことはもちろん、語ることについても、ラジオパーソナリティーとしてね(この冗談肩書を名乗っていること、すっかり忘れていた)。
帰りの電車では、今回の公演を思い出しながら、今回の台本を読んでいた。90分の舞台でも、(当然アドリブもあったし、追加された台詞もあったろうが)文字にすると、それほどの量ではないことを知る。なるほど、と思う。口で語られるための言葉と、目で読まれるための言葉の違い。付属していた「創作ノート」で、まったく新しい世界を生み出すということが、どういうことなのか、その原理が少し分かる。コントを書いてみたいと思う……これは、ラジオコントをやるべきなのか?それは誰が聞くのだろうか。