日々のインプロビゼーションとして、日記を書き続けているわけだけれども、いい加減キツイというか、書くことがまったくないという日も、もちろんあるわけである。本来的には、そういう事態に陥らないように、何か予定を入れておくべきなのだろうが、正直やる気が起きないわけである。ニュースについて言いたいこともないわけだし、人生についての閃きもないわけである。積極的にそちらへ向かいはしないが、間違いなく、生きているよりもあちらの方がマシである。
『放課後さいころ倶楽部』の3話を見ながら、心底驚いていた。初めて見る物語のはずなのに、これから起こることが手に取るように分かったから。だからそれは、あらゆる過去の物語の、順列組合せでできているというのは当然そうで、それだけではない。見れば分かると思うけれど、最初から最後までミルキーのように優しい世界だということを、見ている側が理解して見ている。だから、これはネタバレだけど、嫌な感じのキャラクターは実は善人だし、最後には勇気を出してゲームに勝つ。でも、オチを書いても問題ないでしょう?だって、頭の方を見れば、そうなることが分かるんだもの。
僕が(うーん)と唸ってしまったのは、こういうアニメが作られる背景には、すべてを理解している視聴者は、意外な展開すら予定調和で、幸福になることが定められている物語を、理解を越えて期待をしているのではないかと、そう思ってしまったからだ。それでいい、いやもっと前のめりに、それがいいと思っている人々。本当にこのままでいいのだろうかって、どうしても疑問に思ってしまう。否定する理由も、筋合いもないのだけれど。
生まれてから死ぬほどではないのが分からん。一つも頑張っちゃいないのに、大学まで出ているのが腑に落ちん。見た目が悪いのも、頭が悪いのも、すっかり慣れたけど。やっぱし、人の為になったと思えたら、少しは満足できるのだろうか。そうやって誰かを利用すれば、自分を許せるのだろうか。あー、やだやだ。
朝は天気良かったのに曇ってて、髪でも切りに行こうかしらと、駅の方に歩いていったのに、わざわざ。なんかイベントでライブをやってて、音楽に集まってる人が多くて、入るところを見られるのが恥ずかしくて、やめておく。人混みを通り抜けて、隣駅の床屋に行けばいいやって、そしたら、店のガラス窓に貼られた目隠しの下に足がいっぱい見える。休日なことを忘れてた。僕はエブリデーホリデーだから。
ハロウィンがオッケーになったって聞いてないのに、しれっとオッケーになってる。こじゃれた居酒屋の前に、「ハッピーハロウィン」って書かれた黒板。前から着ぐるみが歩いてくる。その後ろに、仮装の大名行列。祝祭は日常空間を裂くためにあるって本で読んだけど、確かにそうだなーって思った。それだけで、街が違って見えたから。
結局書いてしまう。このことによって、問題が温存される。しかし、こうして"最悪の不幸"を遠ざけるしか、道はないのだろう。書かれているということは、生きているということだ。それはつまり、"最悪の不幸"の反対としての幸福が、約束されているということだ。絶対に幸福な日記なんて、それでいいのか。甚だ疑問だ。