透明な空気を、肺一杯に吸って吐く。頭がすっきりしてくる。歩行とともに、脳内も透明になる。すべてが手に取るように分かりながら、その一切が分からないという退屈が楽しくて、退屈しない。
白線の内側は狭く、すぐ脇を車がびゅんびゅんと過ぎていく。中央図書館に目ぼしい本はなく、借りたいという気持ちが生まれなかった。だから、そこにある検索システムが使いづらくなったパソコンに「ジジェク」と打ち込んで、廻田図書館を行き先とした。帽子を目深にかぶって、何かが気に入らない顔つきで、世界に入り込んでいた。
平日ながら16時だったので、まだまだ余裕があると思っていたが、グーグルマップに「廻田図書館」と打ち込んでルート検索をすると、名前の下に「もうすぐ終了」と書いてある。中央図書館のように、どこも開館時間が長いわけではないことを、忘れないように。
東村山駅から廻田図書館は、歩いて30分程かかる。地球の裏側で、いや、そこまで行かなくても、例えば、オーストラリアに住む人が、この日記を読んだら、どう思うのだろうか。その人の考える東村山駅と、その人が勝手に想像する廻田図書館は、この世にはない。けれど、その人の頭蓋骨の中にはあって、どうにか取り出して、見てみたいと思う。僕が、少しだけ早足になっていた道中は、上り坂しかないという印象で、辛い辛いと嘆いていた。秋になって、涼しくなってきたと言っても、夏に怠けた身体が、運動それ自体の強度に負けてしまう。
だから僕は、「ポストモダンの共産主義」を借りた。あったから借りたのだ。中央図書館にも、ジジェクの本はあったけれど、手に取って、難しそうだったからやめたのに、それは、手に取る前から借りることを決めていた。行動を律する原理のようなものがあると、勘違いしている僕は、とんだ勘違い野郎だ。実際は、あまりにも適当に生きている。
「今では誰も、哲学の棚から本なんて借りないからな」という声が聞こえた。その通りだなと思いながら、来た道を戻ると、その傾斜がいきなり上りで驚く。上ってきた辛さばかりを覚えていて、下りの快適さは、下っているその間に、なんと、忘れていたのだ。
人の頭ってのはさ、当人に都合が良いように構築されるんだってことを、知っといてほしい。特に、十代の君にはさ。一旦建てられてしまうと、解体の難しいビルだ。あらゆる鉄球を跳ね返す。頑なな態度に負けたとて、諦めてはいけない。昔はもっと酷かったんだぞ、ハラスメントとか!心がキレ続けられていれば、世界は変わるぞ。