ブログ「いらけれ」

「2018/06/02 今日のボイスメモ」

6月ですね、昨日から。昨日書き忘れたのは、5月に書いているからです。あー、6月になってしまった。なんだか、本当に落ち込む。でも6月にはワールドカップがあるから。うん、6月を良い月にしたい。

「サバイバルは当たり前」 羽生善治が語る仕事―1

それでも知識は、自分の力ではないのです。頭で覚えた記録や他の人の実績は、自分の立場でやってみて体感し、理解しなければ力を持たない。知識を知恵にするまでのその差は本当に大きいのですが、その距離を埋めていけるかどうか、実行できるかどうか。分かれ目は明確です。

保坂和志が言うように「小説は小説家にしか分からない」とまでは、僕は言うつもりはない。でも、毎日何か書いていて、それにはフィクションもあって、つまりフィクションを毎日書いているわけだけど、毎日書くことで分かることがある。小説を書くことで分かることがある、それは、小説を書くまで分からないことだった、だから保坂和志は小説家にしか分からないと言ったのだろう。
僕がデッドボールを見てひやっとするのは、その速度を体感したことがあり、かつボールの硬さを知っているからだし、当たった時のその痛みを記憶しているからだ。初めて野球を見るというような人でも、ひやっとはするだろう。でも、それは僕のそれとはリアリティが違う。良いとか悪いではなくて、それは全く別物と言っていいほど違う。分かった気になることはできる。でも、違うということは知っておいたほうがいいと思う。

「一線こえちゃう論」を聞きながら「いまはベルトを噛んで入場するレスラーがいるんすよ~」などなど思っていたのです。何の話かってと「東京ポッド許可局」なんすけどね、いや今週の「運論」についてはここ(「2018/05/29 今日のボイスメモ」)でも話したんすけどね、努力できるのも持って生まれたものだし、努力しようと思えるのも運が良いからって言えるでしょう?みたいな話はあって。努力することを否定されるような成育環境というのがあるのです。あと、自分の意思とは無関係に、破滅的な局面を迎えることってのが人生には起こりえるわけですね。災害や事故に自分が巻き込まれたり、家族が遭ったり。そういう人に努力とか言えないですよねと。そう考えると、ほとんどが運で、でも、その不確実性が人間には耐えられない(「明日偶然死ぬ可能性」について本気で心配したら気が狂う)。だから、善行を積めば良いことがあるとか、努力すれば報われるということを信じて何かするわけですね。なんか僕には、そういう人間の生が、「あがき」だったり「もがき」に見えて、あがきもがくことで世界はできているのだなと思ったということです。

「無理無理無理無理ぜったいに無理です、これを登るのは」と思いながら見上げていた棚の上に私はいた。毎日たくさんの食料品が送られてくる倉庫には、大きくパッキングされたものだけではなく、小さな段ボールで、かつ少量ストックされている物もあって、在庫管理のために毎日、水あめの袋とか醤油のペットボトルか缶詰のアンチョビ(たべたことない!!)とか、ストック数が印刷された紙を持って、5メートルの棚を登って確認しなければならなかった。棚への登り方(はしごとかは無い!)を見せてくれた先輩のAさんは、20代半ばの女性で、結婚もしているらしいことをこの部屋に来るまでの会話で知ったけど、どこからどう見ても、おそらく誰が見ても中学生女子で、ほめるつもり100%で「お若く見えますよね」といったら、嫌な顔をされて、発言を少し後悔した。

「ご飯論法」について以前書いたけど、そのあとに気付いたことがあって、それは、大臣は"ちゃんと"答えたらマズいことを誤魔化してるってことで、つまり、法案の問題点や対応の問題点が分かっているということで、つまり、大臣に欠けているのは、能力ではなく良心だということ。

ブログ「いらけれ」

関口知宏の、あの独特のゆるい発話。所ジョージの系譜?。たまたまBSをつけていて、流れてたのを見ただけで、思い入れがあるわけではないのだが。やっぱり脱力系で嫌みのない人というのが、旅先の海外のような場所でも受け入れられやすいのかなと思った。僕は嫌みな男だから、そういう愛嬌(?)は自分にはない。

無口でいられることとか、真面目でいられることっていうのも、自分にはないことで、それは、おちゃらけるから、ふざけてしまうからで、自分とは全然違う人の内面って想像つかないよなー。どういう心持ちなのか。ただ、違う人は違う人の現実を生きていて、それで、向こうにとっての僕も、想像がつかないんだろうってことは、心に留めておきたい。


NBA井戸端会議(2018年5月24日配信)【WOWOWぷらすと】

本当に面白いなあと思って見た。
KDEDの話(ケビン・デュラントという選手を見ていても、面白く感じられないという話)は、僕がここ(とくにないよね「MM」)で話した面白い将棋と勝つ将棋が違うというのと近いし、また、語られているレブロン・ジェームズの孤高ゆえ孤立する姿は、僕がここ(「談志師匠のドキュメンタリーをみた。」)で見ている談志師匠の姿と重ねられると思う。
スポーツについて、いや、全ての"何か"について面白く"語る"ためには、ただ詳しいだけではダメだ。"何か"の結果や事象のみならず、ふとした瞬間に"何か"が振りまく(意味以下の)断片的なものまでをも拾い集め、それについて徹底的に思索し、それらを繋ぎ合わせて新たな意味を作らなければならないのである。つまり、お前の批評と哲学と文学を動員せよ!ってわけ。
「footballista」のサイトでなら、サッカーについて、そういうものが読めることがある(「モデナFCは消滅しました。とあるモデナ女子の独白 」は名作だ。)し、それこそ「WOWOWぷらすと」ならば、そういう話が聞けることもあると思う。
もし、他にそういうものがあったら教えて欲しい。どこに"語り"が生きているのだろうか。

※これは小説で、昨日の続きです。
本当にチェックしなきゃいけなかったのは、スパンクハッピーのインスタとコートニー・バーネットだった。インスタはラジオで始めたって聞いたし、コートニー・バーネットはラジオで聞いて良かったし。YouTubeで他の曲も聞いたけど、それも良かった。無人販売所の野菜も、そんなのないけど無人販売所のCDも盗まないのに、YouTubeの違法アップロードの動画は見ちゃうし、曲は聞いちゃうよねー、不思議。不思議なことはまだあって、最近の糸井重里のSNSでの評価の下がりっぷり。昔から好きじゃなかったって、色んな人が言ってた。不満だったけど黙ってた人って、何かキッカケがあると噴き出すよね。それまでが過大評価だったのだろうか?糸井重里自体は、そんなに変わっていない気もするけど。まー、でもSNSって人をダメにすっからなー。SNSのせいでもあるかも。SNSは「Saitei No Saiaku」ってどうだろう、うぷぷ。などと考えているうちに、次の公園に着く。水が溢れ出てくる口があり、溢れた水が、人工の川となって流れている大きな公園だった。Google Mapでは分からなかったことだ。その公園には、屋根のある休憩スペースがあって、そこに座った。(終)

しかし、なんでネット探偵ってあんなに楽しいのかなー。今日も、調べものでぶつかったブログ記事に「ツイッターでもつぶやいたけど」とあるがアカウントが明記されてなかったので、著者(プロフィールには大学四年生と書いてある。更新は2011年で止まっている。)のツイッターアカウントを特定していた。
探偵手順としては、まず、はてなブログのプロフィールをチェックし(たいした情報はなし)、そのブログのリンクにある所属ゼミのブログ(リンク切れ)のタイトルで検索し、そのゼミの教授の名前を検索し、教授のツイッターアカウントのフォロワーをチェックし……など。色々試すなかで、そのブログのURLを検索してみたら、ツイッターアカウントが特定できた(よく分からないサイトに、消されたツイートがアーカイブされていて、それが引っかかった)。ツイッターは2014年で投稿が止まっていた。ブログを書いていた時期以降に、ももクロのファンになったらしかった。以上。
上記の通り、大抵の探偵行為が実りのないものとなる。しかし、とても楽しいのである。ほとんど自慰行為と変わらないね。

ブログ「いらけれ」

「ベルメゾン」を「ベルクソン」と見間違えるくらいには弱っている。ラジオだけが頼りで、流れてきたアルバート・ハモンド「カリフォルニアの青い空」が、あ、空耳できそうだって思った。それで「It Never Rains In Southern California 空耳」で検索したら、YouTubeに上がっているタモリ俱楽部の空耳アワーが表示された。だいたい、思いつくことは既にある。それで、その動画を見ながら、空耳アワーで名作になるためには、映像が重要だよなあって誰でも思いそうなことを思ってしまったから、諦めた方がいいと思った(何を?人生を)。

僕がバカだからか分かんないけど、全然分かんないことがあって、それは、落語家を見ながら思うことなんだけど、その頭の中に、膨大な量の噺が入ってる。で、人間は死ぬわけだけど、それ(噺たち)がどこにいくんだろうって思ってる。すごいものが、少なくともこの世から消える。どれだけ修行して、練習して頭にいれたとしても、消える。すごい噺家に出会うと、強く、いつかのその日のことを意識させられる。「下の人が継いでいくんだよ」とか、あるいは「死んだらなくなっちゃうだけだよ」って単純に言えるんだろうか。僕には、その噺家の噺が、この世界に実際に存在していると感じている。テキストに起こしたもの、録音したものとは違う、もやもやっと形を持って、そこ(頭)にある。それが、ここ(この世)からなくなる。あったものがここからなくなる、それが、どういうことなのか、サッパリ分からない。

歩いているときに、なぜか思い出したので「「癌」という名のドラゴン──父はゲームをつくった。死にゆく息子のために」を読む。逃げるようだけど、何も言えないから、とにかく読んでほしい。人生には、良いとか悪いとか、損だとか得だとかっていう単純な物事の"外"がある。発せられる問いには、それ自体が何なのか分からない、というか、意味が分かり答えの出る類いの問いとは別の問いが、ただそれとしてある。僕には、今は書くことしかないけど、それが、なんて言ったらいいか言葉にならないけど、何かになったらいいなとは思った。

子テーマを作った(子テーマとは?という方はググってほしい。僕もよく分かっていないから。)。本当は、サイトを作るときにやらなくてはならないことだったらしいのだが、横着していた。子テーマを作るのは、予想以上に簡単だった。だから、テーマを更新した結果消えていた広告が復活した(更新で消えないように子テーマを作るのだという。詳しくはググってほしい。)。スマホで急に全画面広告になったり、変な位置に広告が入っていたりするのは、アドセンスの自動広告だから、僕の意図ではない(自動広告やめたら?という意見は一理ある。ただお金も欲しいのである。)。読みづらい事に対しては、遺憾である。

※これは小説で、明日に続きます。
(始)「その日は曇りで、僕は歩いていて、それは結局二万歩になるんだけど、」とか書き出そうとすると、本当に嫌になってくる。毎日書いているから、いくらでも手癖で書けるのが、自分としてはすごい嫌だ。でも、嫌だからといって、それを避けるためには、頭を壊すしかないから、それも嫌だから書くけど、その日も歩いていた。歩いていた目的は、ポッドキャスト収録に使える公園を探すこと。今日も、もうかなり歩いたけど、一人で喋れそうな公園はなかった。小さな団地の公園には、小さな壁当て用の壁はあった。次の公園を目指して歩き出すと、イヤホンからランダムプレイで、TWICEの「Truth」が流れてきて、それは久しぶりに聞いたんだけど、思うのは、曲のクオリティがすごいということで、デビュー前の「SIXTEEN」の時からこれ歌っているんだよなって思うと、本当に韓国芸能のパワーを思い知らされる気分だ。やはり『THE STORY BEGINS』に収録されている「Do it again」や「Truth」を日本語バージョンにするべきだったと思う。いい曲だから。そういえば、今朝久しぶりに「V LIVE」をチェックしたら、一番最近の動画のサムネに違和感、というか、今の彼女たちではないことが直ぐに分かって、クリックして確認したら、二年前のものだった。初めてアイドルを好きになったわけだけど、やっぱり自分がかなり詳しくなってて、判別能力が付いていること、そのことに驚いた(こういう「瞬時に判別する能力」に名前は付いているのだろうか?)。

とても小さな公園の、とても小さな壁当て用の壁

ブログ「いらけれ」

僕のポッドキャスト「ボイスメモを公開する。」が更新されているので、聞いてくれ~。今回は、なななんと、外で収録されてるぜ!喋りはグダグダだけどな!!

試合前に映ったシェフチェンコを見て「シェバじゃん」って思うくらいにはフットボール好き。これからチャンピオンズリーグの決勝が始まるんだけど、今日(日付変わって昨日)は叡王戦が終わっちゃった。どういう例を出せば、将棋好きって分かってもらえるだろう。書いてる日がバレちゃうなあ。コンペティションを見てて思う、コンペティションが生むものは、勝者のみならず敗者、というか、敗者の方が多いわけだよね、だいたいの場合。たくさんの偉大なる敗者がいるからこそ、勝ちの価値が上がるんで、勝者が輝くのよね。どうしても敗者にシンパサイズしてしまうよね、ボクは。不貞腐れたり、毅然としたり、笑ってごまかしたり、勝者より敗者の方が、その様が一様じゃなかったりして、それで自分が負けた時を思い出すよね。徒競走とかで。敗者の側から世界を見れば、色んなことが分かるのよ。あ、明日(日付変わって今日)は、日本ダービーがあるんだって、電子番組表の「競馬予想TV」の内容紹介で、今知った。昔はそれなりに競馬も知ってたんだけど、今ではほとんど見なくなったなあ。それでは、不肖この私が、勝つ馬を当てましょう。勝つ馬はダノンプレミアムだ。
(追記:弱点はいつだって、厳しい場面、本当に最後の最後に顔を出し、それが決定的になるのだなあと、決勝を見て思った。そして、ダービー馬はワグネリアンだった。ワグネリアンはワーグナーの音楽に心酔している人々を指す言葉から付けられた名前らしいけど、ワグネリアンにワーグナーは聞かせたのだろうか?)

ここ数日(上記にあるように、書いているのは少し前だよ)、「怒りとは嗜癖である」という言説を、ツイッターでよく見かけた。その内容について、どうこう言うつもりもないし、詳しく知りたい方は自分で検索などしてほしい。ただ、僕は結構長いことツイッターやってるので思うのだ、この手の言説が話題になるのは幾度目かであると。つまり「『怒りは嗜癖である』と指摘することも嗜癖である」と、言えるのではないだろうか(しかし、これは「その指摘も嗜癖ではないか」という指摘を呼び込む(さらに、その指摘の指摘も、その指摘の指摘の指摘も……と進んでいくことも可能だ)。それは承知している。)。
「俺は分かっている」という言葉の背中ががら空きだったりして、なぜ人間は、こんなにも分かってる側に立ちたいと思ってしまうのだろうと、考え込んでしまった。注意深かろうが何だろうが、言葉にも、環境にも、思考のクセにも、簡単に踊らされてしまう。それが人間で、人間とは、何かに踊らされている猿と、踊っているつもりで何かに踊らされている猿の総称なんじゃないかと思った。

「仕事でも何でも、人間を仕向けるのは簡単なのに、根性論とか精神論とか古いんですよ。効率を上げるためには、対象に適切に指示を与え、モチベーションを上げる言葉を駆使して、適度に休息を与えないとダメです。人間という動物のメカニズムを理解して、プログラムするんです。そうやって、意図通りに動かせばいい。」
“お前に一番優しい者が、お前の一番の敵である"だ。私は、右手の手首を左手で持ち、右手の人差し指を、先が奴の額の中央を差すように真っすぐに伸ばし、親指を立てた。あのマンガのように。


ちょっと良い将棋が指せたので精密解析してみたら、二段が六段……!自分にしては出来過ぎな内容だったとはいえ、嬉しすぎて泣いた。この解析した将棋は、相居飛車の相雁木風の将棋だったから「やっぱ振り飛車より居飛車の方があってんのかなあ」と思ったり思わなかったする、先手中飛車が好きなんだけど、勝てないおじさん。しかし、自分でも薄々感づいていたけど、終盤型なのね。思い返してみれば、だいたい序盤で苦しくなって、勝負手を連発して、なんとか勝ってる印象しかないものね。
※もし皆様の中で将棋ウォーズを楽しまれている方がいらっしゃいましたら、ぜひご連絡を。IDを交換しましょう。