ブログ「いらけれ」

【音声配信】「建国70年のイスラエルはどこへ向かう?」立山良司×高橋宗男×松本佐保×荻上チキ▼2018年5月16日放送分(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」22時~)
イスラエルは攻撃すると「100倍返し」してくるらしい。そういえば「倍返しだ」というのが決め台詞のドラマがあったなあ。あとそれが、イスラエルが(周りと比べて)国として小さく、人口が少ないことに起因している(全面戦争を避けるため、攻撃をされたら100倍返しをして、軍事拠点を潰すとともに、精神的なダメージを与え、しばらくの間の抑止効果を得るため)というので、「粋な夜電波」で菊地成孔氏が語っていた短躯のバイタリティ、「デカい奴、阿部寛(いい人だけど)をぶん殴ってやるという気分」を思い出した。不謹慎だろうか。
こういう連想はすべきではないのか。そもそも、アメリカの大統領になったところで、解決どころか解決に近づくことすらできないのに、アメリカの大統領ですらない奴が、知ったところでどうなるっていうんだ。背景を丁寧に解説されたからといって、これだけの惨い出来事を、物分かりよく、分かってたまるか。とにかく、惨い出来事は言葉を刈り取っていく、そのことに憤怒している。

深夜ラジオやバラエティ番組、お笑いライブ、落語とかが、差別やハラスメントの温床であることは間違いないと思う、それを分かっていてなお、それを好きな自分はどうしたらいいのだろうと思っている。

いつかのコラムのためのその三。「透明雜誌の透明ディスク(第3回)」より引用。

透明雑誌のデビュー・アルバム〈僕たちのソウルミュージック〉に収録されているヒップホップ・テイストの楽曲“Illmaga”。たくさんの人にこのタイトルの意味を訊かれるんだけど、実はこれ、ナズが94年にリリースした名盤『Illmatic』を真似て、〈Ill〉にMagazineの〈Maga〉を足しただけなんだ。

資料的価値のあるコメント。透明雑誌の曲のタイトルの元ネタが、まさかNASとはね。

もちろん20年前はまだこんな言い方はされてなかったけれど、いま聴いてもこのアルバムはとても〈Swag〉な作品だ。“Represent”のPVのなかで、ナズと彼の仲間たちがNYのハーレムやクイーンズ、ブルックリン、ブロンクスなどの街頭で〈Represent Y’all! Represent!〉と叫ぶシーンは何度観てもヤバすぎるよ!

意味知らないけどなんかスワッグ@「Local Distance」じゃないけど、スワッグ(swag)の意味は難しい。同じことは、レペゼン(represent)についても言える。しかし、洪申豪にとってhiphopが重要な要素であるのは間違いないらしい。

洪申豪 “bored"

東村山市研究①:東村山市立大岱小学校と東京都立東村山高等学校、いなげや東村山市役所前店を結んだ三角形の中(とその付近)に、五つの公園がある。グーグルマップの、小さく緑に塗られた場所がそうだ。また、もう少し西(左)に地図を移動すると、東村山税務署がある。そのそばにも公園があるようだ。この辺りに三十年住んでいるが、知らなかった。今回はこれを巡ってみる。
駅から出発し、空堀川にそって北上する。小学校付近に到着するころには、歩数は二千歩を越えている。地図を頼りに、まず一つ目の公園(「恩多町4丁目第三仲よし広場」と看板に書いてある)に到着した。小さな階段を登る。開けた場所は狭い。民家が後ろにあるせいで、人の家の庭にお邪魔しているような気分になる。落ち着かない。申し訳程度の遊具と椅子。座る気にはなれない。上がって初めて、向こうの袋小路に続く通路があることに気付く。どん突きに開いた風穴のようになっている。袋小路から広い道路へ出て、次の公園へ向かう。そこから少し北へ行けばいい。
恩多町4丁目第4仲よし広場は、コの字に家々が連なっている、そのコの角にある。小さくて色とりどりの丸い椅子と、滑り台がある。ここは少し高く、果樹園が見渡せる場所にある。とても眺めがいい。住宅街の奥にあるとは思えない。驚きを覚える。

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トークショーの質問コーナーで自説を滔々と語りだす人について、それについてのブルース。いつか作詞したい。

いつかのコラムのためのその二。「透明雜誌の透明ディスク(第2回)」より引用。

プロミス・リングはキャップン・ジャズのギタリスト=デイヴィ・ヴォン・ボーレンのバンド。
彼の歌声は絶対的な美声という類ではないし、時にハスキー・ヴォイスでピッチもそれほど正確ではないが、彼は間違いなく曲作りの天才だ!
初めてプロミス・リングのアルバム『30° Everywhere』に収録されている“A Picture Postcard”を聴いた時、まさに思春期で蒼かった僕は、歌が始まる3秒前のギターのハーモニクス(倍音)でこのバンドが好きになった。
当時、僕はいつもCDプレイヤーを持って一人浜辺に行き、この曲を日が昇るまでリピートして聴いていたのを覚えている――本当に〈青春〉していたんだ。

「イヤホンをして夜明け前に見る海」が想像できるこの訳文が、すごく好きだ。夜明け前の海は、僕たちに〈青春〉を思い出させる。想像は、僕たちが本当に〈青春〉していたこと、そして、僕たちが、あの〈青春〉から離れてしまっていることを痛感させる。でも、この僕たちの人生に「本当の〈青春〉」なんてなくて、僕たちは「本当に〈青春〉すること」しかできない。だから僕たちは、あの頃の〈青春〉を思い出すだけではなく、いつだって、これから〈青春〉することだって、できるのさ。

青春について書くつもりなんてなかった。誰も一人で書くことはできない。文章や音楽に触発されながら書いていて、すごくそう思った。考えることも、書くことも、何かしらの影響を、何かから受けている。それは良いことだと思う。一人じゃ思いつかなかったようなことが書けるってことだから。

『交響詩篇エウレカセブン』とリブートするコンテンツ 佐藤大インタビュー

ただ、新しいシステムを模索して成功例を生む前に、システムの外でつくられた『君の名は。』(2016)のようなオリジナル作品がドカンと当たると、みんなの気持ちが揺らぐ(笑)。

「佐藤大のプラマイゼロ」を聞いている人にとっては、目新しさはないというか、大さんらしいなーと思うだろう。でも、文字として読まれるようにしておくのは大事ですし、インタビュアーさやわかさんだし。
メディア状況によって、人間の考え方が変わってきているから、コンテンツに対しての向かい合い方が変わってきている(ライブ感のあるものがお金になる)。もう一方で、ビジネスモデルの変容も起きていて(起こさざるを得なくて)、コンテンツ制作も従来通りではいかなくなった、という内容。アニメーションだけでなく芸術一般、それがお金稼ぎでもあるという事実が厳然と存在しているので、難しいところだ。ただ「個人的にはこのままの路線を掘り続けるとまずいという感覚が、すごくあります。」という、大さんの憂慮はもっともだと思っている(ぼくは、ただの受け手でしかないけど)。

たぶん鴨が二匹いる。久米川ボウルの脇を流れていく野火止用水は意外ときれいだ。草が道路にはみ出している。ゴミ袋が捨ててあって、流れずにいる。掛かっている小さな橋の、下の構造が眼鏡橋のようになっていることに気付く。橋の下に鴨がいる。くちばしと足がオレンジ色をしている。どんな色か、例え様がない。鴨のオレンジだ。

曲のよさは、減衰しにくい。曲は現在と結びつき、いずれもう一度聞く時、過去を思い出すからだろう。つまり、人生の”BGM”として、記憶になるということだ。では、現在と結びつき、いずれ記憶になる文章とは、どのようなものか。音楽のように読み返せる文章とは。

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いつかのコラムのためのその一。「透明雜誌の透明ディスク(第1回)」より引用。

その後エレキ・ギターのサウンドにどんどんハマっていった僕の生活は音楽一色になり、スーパーチャンクの『Slack Motherfucker』が毎朝のテーマソングとなった。僕は片時もイヤフォンを離さず、音量をMAXにして自分自身と外の世界とを隔離していた。
こんなふうに没頭するのは子供っぽいと言われてしまうかもしれないけれど、当時の僕にとってはとても楽しい時間だった。

イヤホンやヘッドホン、イヤーマフを使うことが「自分を世界から隔離する」のだとしたら、アイマスクを使うことは「世界から自分が隔離される」行為ではないか。耳を塞ぐことは、(感覚を)コントロールすることを意味するが、目を塞ぐことは、(状況の)コントロールを放棄することを意味する。耳を塞いで「聞こえな~い」は、相手を馬鹿にしているが、目を塞いで「見えな~い」とするのは、その者が馬鹿である。

承前)文体について、高橋源一郎氏の話は、では自分の文体を持たないためにどうするか、その方法は「書かない(ずっと書かないでいると書き方を忘れるから)」という方向に行く。言葉の、それ自体の運動性というのは避けがたく存在す、確かに、それに頼ることに問題があるのは間違いないとして、もう書き始めてしまった文体をつくらないように書きたい人はどうしたらいいんだろう。

「絶対的な正しさ」が、それぞれの立場に裂けた後、「絶対的な誤り」だけが残った(という感じだ)。イデオロギーは脇に置き、非人道的な行いや、差別、不正、文書改竄などを指摘する。「これこそが正しい」と言えない人々の、「少なくとも、これは間違っている」という叫び。

【音声配信】「本格的な登山シーズン到来!改めて考える山のリスクマネジメント」羽根田治×荻上チキ▼2018年5月15日(火)放送分(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」22時~)
都立東村山中央公園付近で、変な顔をして歩いていた奴がいたとしたら、それは僕だ。変な顔を具体的に言えば、目を見開いたり、舌を出したりという具合だ。それは、この特集を聞いていたからだ。タイトルから想像していなかったが、事例の紹介として、ある家族(さなえ、母、妹、父方の祖父)がハイキングを計画するところから朗読は始まる。神奈川県の丹沢・大山に登った彼女たちは、休日の一日を楽しく過ごしていた。中央公園のあざやかな緑は、僕を物語の中へ没入させた。しかし、下山に取り掛かったところで、雲行きは少しずつ怪しくなっていく。荻上チキさんは、のどかだった朗読が段々と状況が悪化していく、「かまいたちの夜」を読んでいるようだと言う。僕は分かるよと思う。ストーリーは進み、日帰りだったはずが、ビバークを余儀なくされ、翌日も帰ることが出来ずに、また次の夜、次の夜……。南部広美さんの朗読も相まって、ずっしりと重い恐怖と焦燥が、ダイレクトに伝わってくる。溢れ出る涙、祖父の見る幻覚、通り過ぎるヘリコプター。もう心がどうかしてしまって、僕は普通の顔を保てない。彼女たちはどうなってしまうのか……それは聞いてのお楽しみだ!

空堀川沿いの道と、都立東村山中央公園を繋ぐ住宅街の中の一軒、その家の郵便受けの投函口に付いている蓋には「配達ごくろうさまです♪」と書かれたシールが貼ってある。二度と会わないどころか、一生の中で一度も顔を合わせないかもしれない誰かを思いやる人が、少なくとも一人、ここに住んでいた。

小説以前の、小説になる前の、小説とはとてもいえないものは、嘘と呼ぶしかなく、だから僕は嘘を書いている(嘘は何を描いている?)。もし、書かれていることの全てが本当だと思っている人がいたら、それはそれで、かまわない。僕はずっと、嘘を書いていくつもりでいる。

ブログ「いらけれ」

批評はギリギリの嘘を通すテキサスホールデムみたいなゲームなんじゃないの

最近のブログの記述が錯綜しているのは知っている。それが狙いなのか天然なのか、自分でもよく分からない。おかしなことは”現実”にあり、それを言葉にし、記述するためにはおかしく書かなければならない。国会答弁のような現実を写すように書きたい。

高橋源一郎氏は(今は考えが変わったが)、二十代の終わりの何も書けないときに「吉田健一が取り憑いた」「吉田健一っぽくなら書けるかなと思ったら書けた」「吉田健一の文体で、吉田健一が書くようなことを書いていた」「(生きるとは、文明とは、時間とはなど、自分の境遇とかけ離れた、考えてもいないことが)ビックリしたのはいくらでも書ける、何も考えてなくても、考えてないことを書ける。文体すげえ」「(その後、小説を書き始めたとき)それがいい訓練になった、文体をつくってしまえば、全部嘘でもいいんだ」「言いたいこととか、書きたいテーマが何にも無くても大丈夫」「だから、文体を持っている奴は全員信用できないなと。どうせこいつ言うことがないんだろうと」という考え方を一度通過し、文体を疑うようになったと語っている。出典:「高橋 源一郎(作家)×五所 純子(文筆家)「世界」は「小説」でできている!?――いま「日本」を語る「ことば」についてのおはなし」16分頃から

記述が錯綜しているといえば、「【コラム】Childish Gambino – “This Is America" | アメリカからは逃げられない」の「ただこのビデオは銃による暴力など~」というところも、記述が錯綜していると思った。別に批判じゃない、グルーブ感が生まれている気もするし、いい記事だと思うし。批判じゃないといえば、「This Is America」の評価が自分の中で定まらない。最初の一発(途中の二発目)があるからだ。もちろんダンスなど、たくさん美点があるのは承知で、その一発の衝撃に、自分がやられている可能性を否定できないというか。俺は最初のいい一発にやられているだけじゃないのかと、自分を疑ってしまう。

「This Is America」は、話題になってから二日後くらいに見た(だから、見たのは結構前だ)。なんか、それが自分にとって、すごい良かった気がした。誰かの熱に過度に同調するのでもなく、かといって、無視したり否定するのではなく、冷静に見ることが出来た気がした。ツイートは、ツイートした24時間後にやっと表示されるくらいがちょうどいいのではないだろうか。対象との(精神的)距離を導入せよ。

「プロならば批判されて当然だ(だから、何言ってもいいんだ)」という人へ向けて。

「スポーツ選手は“強く”あるべき?メルテザッカーの“独白”への賛否」

彼の告白を「この世界では数少ない、正直な瞬間」と評価した『ターゲスツァイトゥンク』紙は、「メルテザッカーは、プロ選手として感じる重圧と苦悩、失敗することに対する恐れを明かした。その正直さには驚きを禁じ得ない。そしてこのことは、サッカー界がロベルト・エンケの悲劇以降も、根本的にまったく変わっていないことの証左である」と指摘する。

ドイツ代表だったGKは重いうつ病に苦しみ、09年に電車に飛び込んで自ら命を絶った。ドイツサッカー界は戦慄し、当時のDFB会長テオ・ツバンツィガーはエンケの棺の前でこう誓った。

「メディアが伝える、表面をなぞっただけの情報に踊らされるな。人間の内面にまで目を向けよう。サッカーがすべてではない」

しかし、結局何も変わらなかった。

あなたが人であるように、相手も人である。

僕は、心療神経科で今月あったことを聞かれて、余計な色をつけて話してしまう。心理神経症の症状に当てはまるようにエピソードを盛っていく。気分が落ち込んだ話をペラペラと語っていく。話している自分の「躁」状態を、自分が見ている。先月ドクターから「新薬が出るから、次はそれを使いましょう」と言われていた。試しにというニュアンスが強すぎて、自分がモルモットみたいだと思って帰った。だが、新薬は二週間分しか処方できず、四週間に一度通院している僕には使えないことを失念していたらしい。「その代わりに」と言って、寝る前の常用薬を朝にも飲むようにと言われるが、病気の治療ってそういうことなんだろうか……。単純計算で薬が二倍に増えるということだから、お金も二倍になるのだろうと思って、ビクビクしながら調剤薬局のレジに立っていたから、1090円を1900円だと思って2000円出して、薬とたくさんの小銭を手渡された。薬は、もう何か月も前から飲まずにたまっている薬たちの中に仲間入りした。

承前)「では、参考になる振り飛車とはどんなものか?」という問いに、「第11期マイナビ女子オープン五番勝負第3局 加藤桃子女王 対 西山朋佳奨励会三段」は、答えているのではないだろうか(初手7八飛戦法!)。61手目7七歩や、87手目2三歩、良くなってからの手厚い指し回しなど、当然真似など出来るわけはないが、振り飛車らしさを学ぶのには適していると思う。西山三段ぱねぇ(あと決め方がえぐい)。