ブログ「いらけれ」

「2018/05/29 今日のボイスメモ」

ここんとこよく歩いている。今日14000歩。昨日12500歩。一昨日13500歩。一週間前の日には18000歩ほど歩いた。お供はラジオクラウドで、高度プロフェッショナル制度の国会答弁を聞いたりしていた。(【音声配信】働き方改革関連法案。高プロ制度などをめぐる「論点ずらし」の国会答弁を検証▼上西充子×荻上チキ▼2018年5月21日(月)放送分(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」平日22時~))加藤厚労大臣の「ご飯論法」(詳しくはこちら)はすごい。注意していないと、その答弁のおかしさに気付けなかったりする。逆に、めちゃくちゃ有能なんじゃないかという気すらしてくる(多分有能なんでしょう、大臣だから)。この堂々たる詭弁には感動すら覚えるけれど、でも、どれだけ有能でも、その優れた頭を良い方に使わないならば、端的に言ってゴミですよね、人として。神の手の中にあるのならその時々にできることは宇宙の中で良いことを決意するくらい@「流動体について」!!!

久しぶりに「書け」という声が聞こえた。幻聴だ。幻聴だからなんだ?この古川日出男のインタビュー「「お前は右か左か」と聞かれたときに、上とか下とか全然違うことを言えないと作家じゃない――「作家と90分」古川日出男(後篇)」を読んだからかもしれない。古川日出男はこの中で

ある問題が生じると「さあ、お前はどっちの味方なんだ」っていう。でも、「その問題の立て方間違ってない? ちょっと1ミリ軸をずらしてさ、もう一回問いを作りたいんだけど」とかっていうのが小説家とか、1作1作の小説の役割になったら面白いような気がする。

って言ってて、これはずっと俺が思っていることだ。妄想じゃねえ。ポッドキャスト「ボイスメモを公開する。」でも話したことだろう?AかBかじゃなく、お前が何を考えたかだ、と。つうか、俺のポッドキャストの第二回が更新されているわけだけど。なんで全世界の人類が聞かないんだ?なんで全世界の人類が三回ずつ聞かないんだ?それにしても古川日出男はすげえ。すげえってかヤベえ。俺は古川日出男ほどヤバくはない現状。だから何だっていうんだ?ヤバくなればいい。読んでるお前はヤバいか?は?それ、俺に言ってんの?(あ、もちろんこれは狂ったふりで、僕は正気です、おそらく。)

「それじゃ、ぼくが「イズミズム」の第5回を読んで思いついた話を書こうと思うんですけど、『嫌オタク流』に出てくる「自分の知っていること以外はつまらなかった」っていう人についてなんですけど、そういう人しかいなくなった2035年の日本になってて、で、岡田って男が道を歩いてて、そいつには見えてるんですけど、他の人は自分の知っていること以外見えなくなってるんで、だから、見えてないんですけど、二人の男が動物を蹴ってて、これは愛だね、愛だねって言いあってて、岡田はその動物と目が合って、やっべーとか思って、っていう……(後略)」

トヨザキ社長のコレ読め! 第14回 ファン・ジョンウン著「誰でもない」

「コレ読め」はいつもチェックしている。今回の動画では、あらすじを紹介することに対する躊躇(だから信頼している)(あらすじ紹介問題については過去の日記で書きましたね、僕が)と、そして出てくる"声"の問題(原作の"声"を訳し分けるということ)(ポッドキャストで、これから考えたいと話していましたね、僕が)。なにより、韓国文学に対する興味が出てくる。面白そうだって、そんな風にはいつも思ってて、紹介されている本はまだ一冊も読んでない。

ていうか、もう良いこととか言いたくないし、っていうか何も言いたくないし。心が死んでるっていうか、心が生きてない。すべては埋め草です。(ただ小説を書くのだけが、少しだけ楽しい)

ブログ「いらけれ」

Vooid 「礦石」 (Audio)

「礦石」 の『洪申豪選詩集』に載っている訳詞を読むと、必ずといっていいほど泣いてしまう。
歌詞は、どこか目立たない場所、山の奥や渓流の側にひっそりと存在している鉱石に対して「お前の光を世界は必要としていないかもしれないが、それなら土の中で待っていればいい。いつの日かお前も誰かと共鳴するだろう。ゆっくり結晶しておくれ。」と呼びかけている。
この歌詞が、誰に向けられているのかは分からない。作詞をしている現状の自分に言い聞かせているのかもしれないし、過去の報われない自分に向けた歌なのかもしれないし、不遇をかこっている誰かに対してなのかもしれないし、もっと抽象的な想像の中の誰かなのかもしれない。
それはでも、いいの。そんなことは。
歌詞が、苦境にいる人みんなを慰める何かであることだけが確かで、それは特別な優しさによるものだ。現実は急激でひどく乱暴だけど、それに付き合わなくてもいいのだと教えてくれる。固い思い込みの世界を解体してくれる、そんな歌。
いつかの未来には、僕も誰かと共鳴しているのだろうかって思いを馳せてみる……ああ、いい歌だなあ。(そういえばapplemusicにVOOIDのアルバム『VOOID』がありました。「礦石」は入ってないけど、面白い曲も、せつない曲も、あの過去の名曲も入ってるよ。チェックしてみてはいかがか。)

トッププロの将棋を見ていた。難しい形勢が続き、お互いの玉が詰む詰まないの関わる難解すぎる終盤戦に突入していた。プロ棋士二人によるハイスピードの解説が始まった。棋士同士の会話は限りなく将棋星人の言葉、将棋星語に近づく。将棋ウォーズ二段にはついていけない。頭がぐるぐるする。聞いていたら、気を失うように寝ていた。起きたらクライマックスで、ほどなく終局した。かなり難解な将棋だったとはいえ、それから一時間以上感想戦で局面の検討している。しかも終わる気配がない。世界一将棋に詳しい人たちが、「分からない」と繰り返している。そして考えるのをやめようとしない。ビビるというか、すごいというか、おかしいし驚くのだ、その姿勢に。傍からみるかぎりの、あまりの好きさに。僕は、そこまで好きで、向き合うものがない。いや、ほとんどの人にないのだ。とはいえ、自分を省みてしまう。どれだけの好奇心で生きていけるだろうかと。

ぼーっとしていたら、何をやるだとかやらないだとか、僕が世界について(世界に対して)眠っている間に、僕抜きで重要なことが決まっている。SNSに踊るニュースを眺めながら、ただただ吃驚していた。普段は、色々コントロールしている、できているつもりでいる。でも、自己決定出来ることは、少ないし些末だ。それに比べて、世界で(僕からすれば)勝手に起こることの多さと重要さ。とりあえず、その会話に僕も参加させてよって思うけど、そうはいかなくて、あずかり知らぬところで戦争は始まる。それは僕のせいじゃなくて、あたふたしている内に、翻弄されてしまうのが民の人生だ。と、納得して、また目を閉じる。

クワリ村は本当にあるんだけど、それを書くための筆力がまだ足りない。主人公二人は兄弟で、それは本当にファンタジーな世界で、頭の中から書き出す(掻き出す)ためには、古今東西のファンタジーを、一回自分の中に入れないとって思ってる。兄弟からのメッセージは本当に届いているし、彼らの住む家のファーニチャーは鮮明に思い浮かんでるけど、手に余ってる。

僕にはギターがないので、文章で出来る限りのことをします。目指すべきはロックスターじゃなく、作家大先生だ!!!

ブログ「いらけれ」

数日前に書いたバックファイアー効果(「yu-0」)についてなど考えていたときに、佐々木敦著『未知との遭遇』の中に面白い記述を見つけたので、紹介したい。
「ビリーヴァー」という人々がいる。「ビリーヴァー」とは、どれだけ反証しても、さらなる反論の材料を集めてきてUFOを信じ続ける人々のことをいうらしい。彼/彼女らはよく、「それまでは信じていなかったが自分の目で見てしまったから信じざるを得ない」というような言い方をするのだという。
以下単行本版304ページより引用

「この目で見たから」とビリーヴァーになってしまう人には、何が足りないのでしょうか。言うまでもなく、他ならぬ「この目」に対する疑いが欠けているのです。これが「信じる者」の特徴です。他人が何を言ってもなかなか信用しないのに、自分の目で見たからには信じざるを得ないと彼らは言う。まず「この目」こそを疑ってみる必要がある筈なのに。どうして「自分の目」だけは信じるに足ると思えるのかといえば、その理由は、いわば「自分が自分だから」ということでしかない。にもかかわらず、それは非常に強い信憑になってしまう。自分の信じたいことしか信じ(られ)ないという困った状態は、まさに「自分」というものを更新/アップデートできないがゆえに起きるわけです。そうではなく、むしろ「この目」をまず第一に更新/改変していかなければならない。

確かにそうだ。確かにそうなのだが、ここには問題がある。「信じる者」は、「信じる者」になる前に自分を疑い、以前の自分/考え/価値観からアップデートしたからこそ「信じる者」になったのだ。おそらく彼/彼女らは、自分こそ思慮深く疑り深い人間だと思っている。そして、「信じる者」になってしまった者の疑いは、新たに信じる材料にしかならないのだ。だから僕は、ツイッターで「バックファイアー効果というのがある。慰安婦は嘘だと証明されているのに、説明してもそれを理解しない人がバックファイアー効果の典型」というような発言をしている人を見て、頭を抱えざるを得なかったわけだ。
自分を疑うということは、その疑った先に見つけた括弧つきの"真実"に対する信憑を強化することにしかならない。ビリーヴァーが自分を疑ったところで、より狂信的なビリーヴァーになるか、あるいは正反対のことを信じるビリーヴァーになるだけではないか。ビリーヴァーが持つような、特殊な世界観を構築させない/解体するためには、また別の言葉が必要だし、別の考え方が求められるが、今の僕にはまだ見つかってない。これから長い時間をかけて向き合わなければならないテーマだと思っている。

犬のフンを踏んだのだが、近頃では、犬の散歩をするのにフンを処理をするグッズを持っていない人は人にあらずみたいな雰囲気すらあるのに、させっぱなしの人がまだいるのかーと思うと同時に、そういう人は自分がフンを踏んでもいいのだろうかという疑問も持った。次の日あなたが踏む可能性もあるのよ?ってね。


これは、「ボイスメモを公開する。」の第一回の再生数なのだが……本当なのだろうか。一人か二人のために話したのに。まあ、ありがたいことです(よろしければポッドキャスト購読を。もうすぐ更新すると思うので。更新されました)。

取りだした「わたしは何も信じない」は、手の中で「『わたしは何も信じない』ということを信じている」ということに、すぐに変わってしまった。「わたしを信じるな」と言う人がメッセージするのは、「『わたしを信じるな』と言うわたしを信じろ」でしかなかった。私は信じないながら信じよう。

これは間違いなく本当なのだが、朝日の書評サイトを読んでいたら、本も広告も佐藤優だった。

佐藤優ビフォーアフターだ。

ブログ「いらけれ」

「2018/05/25 今日のボイスメモ」

僕は憎んでいる。ウイニングイレブンと将棋ウォーズを。依存症には快楽によってのみなるのではないと思っている。快楽と憎しみによってなるのだ(対象を憎んでいない依存症患者はいない、とまでは言い切れないが、だいたいみんなそうじゃない?)。だから、勝つ快楽だけでなく、負けたときの悔しさから生まれる憎しみが、僕を依存症にする。そして、この二つは、僕の憎しみを増幅するツボを押してくる。だから、一日中ウイイレとウォーズをやっていた。

下図左(1)のような局面で手番のとき、下図中央(2)のように銀を上がるのが最近の好みである。チャンスとばかり飛車先を交換してこられるが、金を上がって守り、下図右(3)のような局面になることが多い。ここで相手の手番だが、角頭に歩を打つのは、角をかわされて(飛車取りだ)、打った歩を狙われる展開になるので、飛車を引き上げる人が多い。そこで、こちらから角頭に歩を打って、局面を治める。

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これが意外に勝てるんだ。「飛車先の歩交換3つの得あり」という格言もあるが(将棋連盟のコラムにもある)、その得を活かすのも中々難しいらしい。力戦志向の方は試してみてはいかがか(負けても責任は取りません)。

僕の警戒心が強すぎるのかもしれないが、小説のあらすじや内容を、断定的に淀みなく語られると、その語っている人を疑ってしまう。この小説はこういうお話で、こういうエピソードで、こういうテーマで、って言われると。何よりも、その小説に対する態度が苦手だ。小説はもっと"割り切れないもの""歯切れの悪いもの"なんじゃないのって思う。

【音声配信】「今こそ考える“元号”の意味とは」鈴木洋仁×片山杜秀×荻上チキ▼2018年5月22日(火)放送分(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」22時~)
勉強になるなあ、と思って聞いていた。本当に無知なので、勉強になることばかりだ、ラジオは。ラジオを聞くことは武器です。武器になる。

いやさ、今回は大学と指導者の対応が著しくおかしかったから、ちゃんと問題化したけど、「もっと"狡猾に"やられていたら」って思うとゾッとするよなー。ヘタすりゃ指示があったって話も出てこなかったかもしれないしさ。そしたら全部選手のせいってことになってた可能性も考えるとね。
だいたい、やっちゃえば得ってことはあるわけだよね、スポーツのみならず。バレなければとか、ルールの中で処理されればとかさ。でも、やらせちゃいけないわけよね、人間だから。人間としての「一線こえちゃう」から。矜持とか尊厳があるからさ。そういうのがどんどん切り崩されているのが今なのかもしれないし、あるいは、一線こえたら簡単に炎上してしまうのが今なのかもしれないけど。

キーボードに向かうが、何も書けない。キーボードに向かっている時、それはパソコンに向かっている時で、パソコンに向かっている時は、気が散っている時で、書くための調べもののつもりで、菊地成孔の発言について調べていたつもりが、いつの間にか読み忘れていた映画評を読んでいて、映画の画像のややエロスに触発されて、エッチなサイトを見てしまう。まだ一文字も書いていないというのに。

何を見ても、何を読んでも面白くない。人間には二つの状態しかない。それは言葉を生み出すフェーズと、言葉を失うフェーズだ。僕は、今間違いなく言葉を失っていってる。言葉を失うということは、世界を失うということだ。人間にとっては。言葉の仮構物だから、世界は。ただ、犬を「犬」という言葉に収斂させられなくなったらどうなるのか、その状態には興味がある。「そうなっちゃたとき」というのは、それはそれで、新しい言葉を生み出すフェーズに近づくのかもしれない。

※洪申豪さんについて(『洪申豪選詩集』についてになると思いますが)は、僕の状況や、やる気に左右されますが、いつか必ず書きたいと思っています。時間はかかるかもしれませんが、気長に待っていてくださると幸いです。