私にはただの「本当のこと」
6月ですね、昨日から。昨日書き忘れたのは、5月に書いているからです。あー、6月になってしまった。なんだか、本当に落ち込む。でも6月にはワールドカップがあるから。うん、6月を良い月にしたい。
それでも知識は、自分の力ではないのです。頭で覚えた記録や他の人の実績は、自分の立場でやってみて体感し、理解しなければ力を持たない。知識を知恵にするまでのその差は本当に大きいのですが、その距離を埋めていけるかどうか、実行できるかどうか。分かれ目は明確です。
保坂和志が言うように「小説は小説家にしか分からない」とまでは、僕は言うつもりはない。でも、毎日何か書いていて、それにはフィクションもあって、つまりフィクションを毎日書いているわけだけど、毎日書くことで分かることがある。小説を書くことで分かることがある、それは、小説を書くまで分からないことだった、だから保坂和志は小説家にしか分からないと言ったのだろう。
僕がデッドボールを見てひやっとするのは、その速度を体感したことがあり、かつボールの硬さを知っているからだし、当たった時のその痛みを記憶しているからだ。初めて野球を見るというような人でも、ひやっとはするだろう。でも、それは僕のそれとはリアリティが違う。良いとか悪いではなくて、それは全く別物と言っていいほど違う。分かった気になることはできる。でも、違うということは知っておいたほうがいいと思う。
「一線こえちゃう論」を聞きながら「いまはベルトを噛んで入場するレスラーがいるんすよ~」などなど思っていたのです。何の話かってと「東京ポッド許可局」なんすけどね、いや今週の「運論」についてはここ(「2018/05/29 今日のボイスメモ」)でも話したんすけどね、努力できるのも持って生まれたものだし、努力しようと思えるのも運が良いからって言えるでしょう?みたいな話はあって。努力することを否定されるような成育環境というのがあるのです。あと、自分の意思とは無関係に、破滅的な局面を迎えることってのが人生には起こりえるわけですね。災害や事故に自分が巻き込まれたり、家族が遭ったり。そういう人に努力とか言えないですよねと。そう考えると、ほとんどが運で、でも、その不確実性が人間には耐えられない(「明日偶然死ぬ可能性」について本気で心配したら気が狂う)。だから、善行を積めば良いことがあるとか、努力すれば報われるということを信じて何かするわけですね。なんか僕には、そういう人間の生が、「あがき」だったり「もがき」に見えて、あがきもがくことで世界はできているのだなと思ったということです。
「無理無理無理無理ぜったいに無理です、これを登るのは」と思いながら見上げていた棚の上に私はいた。毎日たくさんの食料品が送られてくる倉庫には、大きくパッキングされたものだけではなく、小さな段ボールで、かつ少量ストックされている物もあって、在庫管理のために毎日、水あめの袋とか醤油のペットボトルか缶詰のアンチョビ(たべたことない!!)とか、ストック数が印刷された紙を持って、5メートルの棚を登って確認しなければならなかった。棚への登り方(はしごとかは無い!)を見せてくれた先輩のAさんは、20代半ばの女性で、結婚もしているらしいことをこの部屋に来るまでの会話で知ったけど、どこからどう見ても、おそらく誰が見ても中学生女子で、ほめるつもり100%で「お若く見えますよね」といったら、嫌な顔をされて、発言を少し後悔した。
「ご飯論法」について以前書いたけど、そのあとに気付いたことがあって、それは、大臣は"ちゃんと"答えたらマズいことを誤魔化してるってことで、つまり、法案の問題点や対応の問題点が分かっているということで、つまり、大臣に欠けているのは、能力ではなく良心だということ。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません