ブログ「いらけれ」

松の内が明けても、まだお正月の話をしてるってのは、ちょっと、どうなんだろうか。まあでも、西武ドームから歩いて帰ってしまったんだから、書かないわけにはいかないってなもんで。駅で親と別れて、耳にイヤホンを突っ込んで歩き出した。まず、西武ドームの脇を抜けてこうと思ったんだけど、抜けられないようだったので引き返す。グーグルマップで経路を調べたら、1時間半っていうから、まあ行けるじゃろうとなめていた。

『深夜の馬鹿力』を聞きながら住宅街を歩くと、意外と人が出ている。2日じゃなければ、こんなにすれ違わないんじゃない?家族団らんという風情の人たちの間を、このツラで抜けていくのには大変なツラみがある。ツラだけに。てへへ、と左側の家の大きな窓に、こちら向きに白黒のポスターが飾ってある。これが、若かりしころの松坂大輔で、まあ西武だからおかしくはないし、日が当たって色あせたのだろう。しかしこれ、20年ここにあったのだろうか。辺りの景色が、ちょっとずつ山みたいになっていく。

こんな時ぐらいやめとけばいいのに、歩きフリーセルしてたら、いつの間にかルートを外れている。元のルートに戻れる道が、道というか超坂。しかも、舗装されてないゴルフ場の脇のところ。フェンスを頼りになんとか上がったけど、死ぬかと思った。草の生えていない黒い地面のところでは滑った。坂とかマジで無理。そこで「つうか、この辺やべえな」ってことに気づく。わざわざ一旦急坂や階段を降りて、そんでめっちゃ上るんだもの。ここに住んでいる人の太ももと心肺機能、鍛えられそう。犬の散歩してる人、ちょくちょく見かけたけど、すごいな。


こう見ると、そんな急じゃないっぽいのが悲しい。リアリティは、インスタには上げられないのだ!!

ゴルフ場エリアが本当に辛かった。ファミマのベンチに腰かけて休む。立って少し行くと、目の前に大きな湖がキラキラと光っている!これが多摩湖です(写真はありません)。隣の西武園ゆうえんちを、一心不乱にのぞいている少年がいるが、なんかやってんだろうか。行きの電車からは、プリキュア的な何かのステージをやってるのが見えたけど。わざわざ柱で高くしてあって、景色が良さそうなレストランで、一服する自分は想像しただけで、僕は行かなければならない。


遊園地の、回ったり上がったりする乗り物。僕は、乗ったことないけど、ちょっと乗ってみたいという、少年の心を忘れてない。

ずっと昔に買っていて、大掃除の際に出てきたアンクルウエイト(500g)を、ここのところ付けていたのだが、今は後悔しかない。足いた~い。あ、西武遊園地駅の階段すごい。これ上るの大変そう。グーグルマップが示す道に沿っていたら、また住宅街に入ったのだが、そこの自転車を通行させないための仕掛けが面白い形してて、ああ、パラレルワールドに入ってしまったのだなと思ったけど、そんなことはなかった。住宅街を抜けたらすぐに、遠くに東村山の駅ビルが見えたから。そこからは、家までもう、そんなになかった。途中、派手な絵が描かれた幼稚園とかあったけど。浄水場のとこに出て、したら駅まで30分くらいだし。結局1時間半で家に着いた。朝から合わせて1万7000歩あまり。デーゲームなら西武ドームで見て、歩いて帰れないことはないだろう(夜は山が怖い)。でも、あのアップダウンを、もう一度歩くのはゴメンだ。エスカレーターを付けてほしい。あるいは山を削って、谷を埋めて平らにしてほしい。そうなったら教えてほしい、また歩くから。


ここにもあった自転車避け。さすがに階段のところには、いらないんじゃない?

ブログ「いらけれ」

初詣に行ってきた、一月二日に。天気が良くて、風はそれなりに冷たかったけど、ぜんぜん大丈夫って感じだ。向かうのは狭山不動尊。ここに引っ越して来る前から、ずっと行っているらしい。八坂駅まで歩いて、八坂駅では、いつも富士山が見えるのだけど、遠くに雲が出ていて、見えなかった。流暢に日本語を話す外国人の女性が連れていた二人の男の子は、電車が好きらしく元気にはしゃいでいて、こちらも元気をもらう。

なぜ初詣に行ったのかといえば、気まぐれとしか言えない。いつもは行かないのに、今年は行ってみてもいいかなという気になっただけ。働き始めて、家族に対して、少し後ろめたさがなくなったのもあるかもしれない。やや前向きになっているのかもしれない。

思い出話をしてみる。前の家のこと。西武遊園地のこと。レオライナーのこと。西武球場に来た記憶や、ユネスコ村の話。ゲームセンターがあったこと。僕は、そこに30個ほどあった100円入れると動くパンダや熊の乗り物に、全部乗ると言ったのだそうだ。ゴルフ場が見える。新年からゴルフをするなんて、よっぽど好きなんだろうな。そうこうしているうちに、電車はあっという間にお寺さんに着いた。

参拝する人が多いって、そんな話前もした気がする。お賽銭を入れるために、結構な行列。ディズニーランドじゃないんだから。待っていたら、風に乗ったお焚き上げの煙と灰がかかって、動線に関する基本的な設計を間違えてるんじゃないかと思った。「財布が痛むぐらいのお金を入れないといけない、神様が見てるんだって」という話を聞く。日本銀行券に詳しくて、しかも、財布の中まで見てご利益を決める神様なんて、現金すぎるのではないだろうか。5円を入れて、新しい仕事が見つかることを祈った。あと、お賽銭を入れてつくとご利益があるという鐘のところでも、同じことを祈った。お願いします。

気になるおみくじの結果は以下の通り。

「自分を貫くとは、自由と挑戦と少しの苦痛でできている」って、なんかポエムみたいだ。ポエム化するおみくじ。吉だったのは良いし、書かれていることも信じたいことばかりだけど、この写真を撮った後に、このおみくじの番号が「第四十二番」なことに気づく。そんな縁起の悪い話あるだろうか。入れなければいいのではないだろうか。

ゲームセンターはすっかり物置になっている。お寺の近くには立派な建物がいっぱいあるけれど、どれも使われていないという。気になったので調べようとしたところ、狭山不動尊が1975年に建立されたことを知る。うん、なんだか有難みが。うん。屋台で焼きそばとかお好み焼きを食べて、「これ一つで500円って」などという、だったら最初から食わなければいいじゃん、でもこれも楽しいのよ、みたいな会話をして、歩いて帰った話を明日はしよう。

ブログ「いらけれ」


今年の一月を見せたかったわけじゃなくて、100円ショップで買ったカレンダーかっこよくない?かっこよくない?という話をしたかったのだ。いつも、付き合いで取っている、まったく信仰していない宗教団体が発行している新聞の、カレンダーが回ってくるんだけど、今年はそれがなかった(台所事情が厳しいのかな?)ので、自分で買いにいったら、100均にいいのがあったのでそれにした。書き込みできないけどね。まあ、でも予定はグーグルカレンダーに入れちゃうので、電話しているときとか、部屋でぼーっと先のことを考えるときに必要なだけだし。
カレンダーは好き。親が旅行関係の会社に勤めていることもあって、いろいろな名所の大きな写真が入ったカレンダーをもらう。それがトイレに掛かっている。その美しい景色を、海の上を跳ねるクジラや、噴火した火山を見る。月が変わると、また新しい写真。新しい景色。新しい名所。行ったこともない場所。でも、誰かが見た景色。

彼女の様子がおかしくなったのは、夏頃のことだった。その原因は彼女も分かっていなくて、実は大学受験のプレッシャーだったのだけど、行為は、僕への好意として表れた。受験に向けての夏期講習が始まる前や、終わってすぐの会話、2年間ほとんどしゃべったことがなかったというのに、雑談のなかに、「アタシゴトウクンガスキダカラサー」という謎のフレーズが、ちょくちょく差し挟まれるようになった。クーラーで涼しい教室に、話の流れと関係なしに放たれた言葉は、ワギャンランドのように固まって飛んでった。ハーレムアニメの鈍感主人公よろしく、気づかない(ふりをしていた)僕も、受験生なのだから勉強すべきだった。しかし、ご想像の通り、ここから、あの思い出は始まった。

クリスマスに大晦日、メイウェザーや紅白、あけましておめでとう、初詣、などといったことによって、バタバタして、せかせかした気持ちになっていたことで、そのことばかりで、(より狭い意味での)政治についての多くのことを忘れていた皆さん、こんにちは。それはもちろん僕もそうで、だから継続的な運動や、その後の革命というのはありえない時代だ。みんな毎日が大事で、良識ある人が日々の暮らしを生きるとき、狂信者たちが生活を壊す。ただ懸命に生きるだけで、それがそのまま政治の場に反映されるような、新しいテクノロジーの登場が待たれるところだ。そして、その新しいテクノロジーを過信した人々は、知らぬ間に決定された政治によって、徐々に首を絞められ、ついには絶滅してしまったとさ。(おわり)

ブログ「いらけれ」

姉貴の家族、旦那さんと子どもたちが帰ったから、年末に買った"あまりにも暖かい"布団と、部屋から出た。まず風呂に入って、人が死ぬということは、この世からアカウントが消えることなのではないか、などと、湯船に浸かりながら考えていた。ツイッターの、インスタの、ラインのアカウントが消えたら、一切の連絡が取れなくなって、つまり僕の世界からその存在が消えてしまう人はたくさんいて、それは悲しいことだし困ると思って、なんだか焦るような気持ちになる。ただ、霊魂のようなものがあって、この世の肉体はアカウントのようなもので、肉体がなくなっても、また別の形で大事な人と会えるのなら、そんなに気にならないかもしれない。でも、死んだらどうなるかなんて、その一切は分からないのだった。


まだ騒がしさの残響が残る(気のする)リビングで、僕は昼食としてカップラーメンを食べるためにお湯を沸かし、そして食べて、その間は『戦うお正月』という、お正月恒例の番組を見ていたんだけど、というか、親が見ていたのを見ていたんだけど、なんか今年の番組は全然戦う気配がない。平成の振り返りばかりしていて、「全然戦うお正月じゃないじゃん」とつぶやいたら、父は「そうなんだよ、ずっと見てるけどほとんど戦わないんだよ」と言った。最後まで見ることもなく、早々に家を出た。


お正月の街に、特別な感慨もなく。ただ、聞いていた『東京ポッド許可局』の年越し特番は楽しかった。マキタ&鹿島コンビによるイゾラド芸。何を買う訳でもなくぶらぶらして、商店街に並んではためいている、小学生たちの書を眺めた。字の上手い下手も、僕の目を引くんだけど、書かれている四字熟語が、「一意専心」とかだと、まあそうだろうなという感じだが、「日進月歩」とかだと、それは意気込みとか抱負とは、ちょっとずれてるんじゃないだろうかと思う。なかには「天馬空行」なんてものもあって、尖った子もいるんだなあ。僕が小学生だったら、なんて書いただろう。ウケを狙って「他力本願」とか書く嫌な奴だっただろうな。あのころの僕は、鼻持ちならない生き物だ。


夕食には雑煮と、おせちをいただく。毎年、こんなときじゃないと食べない、食べられないものがあって、楽しい。干し柿のなかにバター餡が入っているやつとか。貝を雲丹で和えたやつとか。テレビは『芸能人格付けチェック』をやっていて、資本主義のことを考える。100万円のワインと5000円のワインのどちらが高いか、黙って出されると分からない、そして、間違えると格が落ちるというシステムは、とても示唆的で、現代では、ゲームみたいな資本主義で上手くやった金持ちが貴族なのであって、だからそれは、高い方を当てるというゲームによって階級を決められるということになって、そして実は、高価なものと安価なものは大差なくて……と考えているうちに食べ終わったので、自分の部屋に戻った。