行きて帰りし物語
姉貴の家族、旦那さんと子どもたちが帰ったから、年末に買った"あまりにも暖かい"布団と、部屋から出た。まず風呂に入って、人が死ぬということは、この世からアカウントが消えることなのではないか、などと、湯船に浸かりながら考えていた。ツイッターの、インスタの、ラインのアカウントが消えたら、一切の連絡が取れなくなって、つまり僕の世界からその存在が消えてしまう人はたくさんいて、それは悲しいことだし困ると思って、なんだか焦るような気持ちになる。ただ、霊魂のようなものがあって、この世の肉体はアカウントのようなもので、肉体がなくなっても、また別の形で大事な人と会えるのなら、そんなに気にならないかもしれない。でも、死んだらどうなるかなんて、その一切は分からないのだった。
まだ騒がしさの残響が残る(気のする)リビングで、僕は昼食としてカップラーメンを食べるためにお湯を沸かし、そして食べて、その間は『戦うお正月』という、お正月恒例の番組を見ていたんだけど、というか、親が見ていたのを見ていたんだけど、なんか今年の番組は全然戦う気配がない。平成の振り返りばかりしていて、「全然戦うお正月じゃないじゃん」とつぶやいたら、父は「そうなんだよ、ずっと見てるけどほとんど戦わないんだよ」と言った。最後まで見ることもなく、早々に家を出た。
お正月の街に、特別な感慨もなく。ただ、聞いていた『東京ポッド許可局』の年越し特番は楽しかった。マキタ&鹿島コンビによるイゾラド芸。何を買う訳でもなくぶらぶらして、商店街に並んではためいている、小学生たちの書を眺めた。字の上手い下手も、僕の目を引くんだけど、書かれている四字熟語が、「一意専心」とかだと、まあそうだろうなという感じだが、「日進月歩」とかだと、それは意気込みとか抱負とは、ちょっとずれてるんじゃないだろうかと思う。なかには「天馬空行」なんてものもあって、尖った子もいるんだなあ。僕が小学生だったら、なんて書いただろう。ウケを狙って「他力本願」とか書く嫌な奴だっただろうな。あのころの僕は、鼻持ちならない生き物だ。
夕食には雑煮と、おせちをいただく。毎年、こんなときじゃないと食べない、食べられないものがあって、楽しい。干し柿のなかにバター餡が入っているやつとか。貝を雲丹で和えたやつとか。テレビは『芸能人格付けチェック』をやっていて、資本主義のことを考える。100万円のワインと5000円のワインのどちらが高いか、黙って出されると分からない、そして、間違えると格が落ちるというシステムは、とても示唆的で、現代では、ゲームみたいな資本主義で上手くやった金持ちが貴族なのであって、だからそれは、高い方を当てるというゲームによって階級を決められるということになって、そして実は、高価なものと安価なものは大差なくて……と考えているうちに食べ終わったので、自分の部屋に戻った。
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