ブログ「いらけれ」

あー、昨日は書きたいことを書けた。それも書きたいように!久しぶりに。それで、オーディエンスの求めるものと、金になるものと、演者のやりたいことって全然違うのだろうことが、とてもよく分かった。ぐぬぬ。

なんで小説を書いてるつもりなのに、ツイッターの肩書きが批評家/ライターなんだろう。そんで、なんで今の今まで気付かなかったのかが不明。ライターは実際にそうだからいいとして、批評家は半分冗談だからいいとして、しかし、商業出版を経験していないものが小説家を名乗るのはなあ。う~ん、作家?文筆家?物書き?……そうだね、うん。すべて合わせて、"ものかき"って感じかな。
追記:このサイトのプロフィールでは、「「頭痛派」代表。作家/批評家/ライター/ラジオパーソナリティー。」ってなってるんだね。これはこれで、確かに間違ってない。いや、すべてが間違ってるようにも思えるけど。

「こうして見上げると、伸びた木は空の血管みたいだ」というセリフを、確かに僕は言った。気障な男子高校生は、コンビニに肉まんを買いに行った友人たちを公園のベンチで待ちながら、隣でモンスターハンターを遊び終え、同じく帰りを待っていた同級生男子に言ったのだ。これはその頃、GRAPEVINEの『指先』のMVを、ケーブルテレビで繰り返し見ていた内の一回、最後のシーンで思ったことだった。それがずっと心にあって、たまたまその時に口から出てきた。何気ない一言は、僕が思っていたより絶賛され、僕は、すごい発見をした偉人のように褒められていた。肉まんを買いにいった奴らは、ホットのカフェオレを僕らのために買ってきてくれた。温まった僕らはその後、鬼ごっこなどをした。バカなのか、それとも輝いていたのか、ただそこにいた僕らは、僕にとって大事な思い出になっている。

ある物語の、あるキャラクターのセリフが、セクハラなことにビクッとする。現実世界に、セクハラが存在している以上、そういった発言が劇中に出てきてもいいはずだが、しかし、そこにツッコミを入れてほしい、アウトな発言だという説明があってほしいと思ってしまう。物語は、イデオロギーの入れ物ではないはずで、間違った行いをした人が報いを受けずに、のさばっていいはずなのだ。だが、受け手の私が、それを許せなくなっている。許さないように、時代に方向づけられている。
現在のフィクション内においては、あらゆるハラスメントや差別はすでに、丁寧にオミットされるか、あるいはコテンパンにやっつけられるかという運命にあり、もし作り手が自覚なく描いてしまえば、大いに批判され、炎上の憂き目にあうことを避けられない。物語というものの取り扱いについて、結局、決着を付けてこなかったツケが回ってきているわけだ。フィクションが、政治的正しさの前に跪いている今の時代には、本当に『大脱走』ではなく、『模範囚物語』が求められているのだろう。おそらくもう、フィクションは負けている。だからこそ、できることを考えている。


GRAPEVINE – 指先

矛盾をわかっている

ブログ「いらけれ」

精神のチェックポイントなのかもしれない。なにが?

文章を書ける、書けないということが、僕にとっての。体は元気だったとしても、訳もなく心が不調だったり、体の不調が、実は精神の異変によるものだったりする。そして、それに気付いてなかったりしてね。吉田アミさんのnote「壊れたあたまの直しかた」で、書かれていたことに影響されているな、これ。読んでグッときたから、同じようなことを書いてしまった。それもこれも、本当に悪いことなのか?

テレビで、新日本プロレスの東京ドーム大会(イッテンヨンね)をやっていて、でもまあ、やらなきゃいけないことがあったというのもあるんだけど、パソコンで作業しながらぼんやり見てしまって、そのことを夜中に後悔していた。でも、あくまでも自分にとってはだけど、もっと大切なことがあって、それに集中していただけで、それなのに、なんで後悔なんてしていたのかといえば、心の調子が悪かったからだ。

この前ローソンでもらったコーヒーの容器に、家にある紙パックのコーヒーを入れて飲んでいる。コップは汚れないし、蓋はあるし、容器が汚れたら捨てればいいし、利点だらけだと喜ぶ気持ちを上回って、みすぼらしくて虚しく、貧乏くさい自分が嫌で、人としてダメだと思ったんだけど、でも、これも考えてみれば、ただメンタルがやられていたからそう思っていただけだろう、きっと。みすぼらしいのは本当だけど。

めちゃくちゃ単純に、仕事が始まって憂鬱なのかもしれない。僕の人生は、無駄にするためにあるのではない。僕の人生は、僕がやりたいことを実現するためにある。つまり、金儲けより優先すべきことがある。あるいは、期待して見始めたアニメを、つまらないと感じてしまったことも、影響しているのかもしれない。合う合わないもあるし、そんなもんだと分かっている"つもり"でも、やっぱりダメージはあって、落ち込んでしまうことも、そういう経験はあなたにもあるはずだ。

ギターを持って街に出た人は、きっと、たくさんいた。でも、聞いてくれる人ができるまで、歌い続けた人は少なかったんじゃない?やめるポイントはいくつもあって、でも、やめていたら今の自分はない。出会えなかった人もいただろう。続けてきたことが自信になって、続けていくことが希望になる。

つかお前、大事そうに金貯めてないで、使えよ!そのままだとたぶん、そのまんまだぞ、お前!頑張って、結果、死んだ人を馬鹿にしたくないお前は、つまり頑張って死ぬべきなのだ。この怠惰と絶望のサークルを抜けて、、、なんか、この先が思いつかないという締まらない終わりだけど、でも、希望が手元にある今の僕は、それがいいと思った。

ブログ「いらけれ」

ダメだ、すでに好きなもの、愛しているもの、贔屓にしているものじゃない物語を見ても「俺ならこうする……」としか思えない。自分の思うように、その通りにしたら、もっと面白くなるわけじゃないことは、当然分かってる。でも、〈世界〉や〈物語〉について、真剣に考えたいという気持ちが強くあって、だから、中途半端な態度というか、底の浅さを感じてしまったり、自分では思いつかないような世界を見せてくれなかったりするものに対しては、冷たい感情を持ってしまう。僕が、実作者として一歩踏み出したのなら喜ばしいこと、単にひねくれて、心が閉じているのなら悲しむべきことだ。
追記:好きじゃないじゃなくて、これ嫌いだ……。嫌いという力は大きくて、そこまで思わせてくれるというのは、ありがたいことだ。どうでもいいものは嫌えない。ここにこそ、僕のこだわる何かがあるのだろう。嫌いな理由を、真剣に考えてみる。

通り魔的な犯罪が怖い。偶然に、そこにいたことで襲われるという、防ぎようのなさや因果関係のなさも、そりゃもちろん怖い。でも自分が、そういうことをしない人間であることが、ただの偶然であることを教えられているようで、それがもっと怖い。なにかが違ったら、蝶々の羽ばたき次第では、僕も向こう側の人間になっていたかもしれないと思う。だから、古今東西の凶悪事件について書かれたウィキペディアやブログを読んでしまうのかもしれない。

ゲームを買ってもらえないことに駄々をこね、多くの人が行き交う横断歩道で座り込んで、夕暮れに手を引かれて歩いた新宿。あの時見たものを、そのまま見た通りに、仔細に書くことは楽しい。覚えていることなら、いくらでも書けるさ。目をつぶっていても。でも僕は、今は未来のことを書きたい。気を抜くと、過去ばかりみてしまう自分がいる。僕の未来、僕はあの父が経験したような面倒を、引き受けることができるのだろうか。

『欲望の資本主義2019』を見た。GAFAの分析していたおじさんが、「グーグルは神だ」って言ってて、(『僕おも』じゃん…)って思った。あと、「アップルはセックス」とか言ってて、(頭おかしい、僕の仲間だ!)と思ったということは、ここでは置いといて。
番組について、前回の2018は面白く見て、ポッドキャストで思ったこと、思いついたことをしゃべったりもしたんだけど、今回はそういう気にもなれず。何度も聞いたような現状分析と対抗策では、この先が良くなる気がしないよ。まあ、そういうことならば、お前が頑張れという話なのは分かっている。


【歌詞つき】Stairway to you(C’mon ! MV ver.)/FoZZtone【official】

僕も僕に 期待してるしさ
いいね、変われる
hello hello

ブログ「いらけれ」

ビッグデータを分析したら、人間は朝と夜で、思考も嗜好も違ったんですって、まるで新しいことのように言うけれど、そんなの、夜中に書いたラブレターを、朝に見返したら恥ずかしくなるって、もう皆が経験的に知っていることじゃないか。最先端の知見なんて、目くらましなことも多いよ。

お正月、取れ高がすごい。これでも書いていないことがいっぱいだからな。毎日がお正月みたいな日々が、この緯度と経度に出現し続けてくれればいいのに。

なんかauのキャンペーンで、ローソンのコーヒーがもらえるというから、わざわざ30分くらい歩いて、家の周りにローソンができてほしいなあと思う。アイスかホットかで、なぜかアイスを選んでしまった僕は、この冬にアイスコーヒーを頼むヤバイ奴、そして歩きながら飲む非常にヤバイ奴になった。あまり来たことないなこの辺。甘いコーヒー、暖かい日差し、知らない街。こうして歩くことが金になればいいのに。シバハマラジオの水曜日が面白い。ゲストの玉川太福が、浪曲師になった経緯を話している午後。
書き忘れたことを思い出す。初詣に行ったとき、前に来たのはいつだったかという話になって、このブログに、そのとき引いたおみくじを載せたことを覚えていたので、写真の日付を確認したら2016年だった。そのブログというのが、「1/2 初詣」で、何度読んでも、このおみくじに書かれていた短歌は切なすぎる。3年ぶりに読んでも、そのときの切ない気持ちが湧き上がってきて、家族に「切なすぎるでしょ、これ」と画像を見せ、語ってしまった。で、2016年という年は、まさにこの歌のような一年だったわけで、振り返ってみれば警告されていたし、当たっていた。シーズン開幕前の、野球解説者の順位予想が、あまり顧みられないことが不満で、それは、そういう緊張感がなければ、なんとでも言えてしまうからだ。おみくじの答え合わせは面白そうだから、来年の1月までここがあれば、やってみようと思う。
ゲイラカイトは高く飛ぶ。ほどなく中央公園に出ると、子どもと同じくらい楽しそうに大人が遊んでいる。風が強かったので、凧は気持ちよさそうだ。雲の無い空。木の上に、アンパンマンの描かれた凧が絡みついている。よく見ると、他にもいくつかの凧が引っかかって、そのままにされていた。捨てられたあの凧に、親近感を抱いた。

もっと普通にしゃべりたいなって思う。政治のことも、生活のことも、愛のことも。普通にしゃべる、てらいなく、そして素直に。誰かに喜ばれるからとか、そっちの方が面白がってもらえるからとかじゃなくて。でも、しゃべろうとすると、つんのめって、あるいはつまって言葉が出てこない。リハビリ、あるいはトレーニングとして、こうして語りかける言葉。


【歌詞つき】Morning Glory(live ver) / FoZZtone [official]

心に光は射しているか