ブログ「いらけれ」


歩いていたら見つけた看板その②。まず、飼い主がふんの始末をすることを呼びかける看板であるのに、犬が掃除しているのがおかしい(それに付けても、絵のタッチよ)。それに、例えば喫煙を禁止する看板は、赤い丸と斜線のなかに煙の出たタバコが描かれていることを考えれば、これでは掃除を禁止していることになってしまうはずで、二重に間違っている。もう一度言うが、二重に間違っている。裏の裏は表ということなのだろうか。飼い主が掃除しないから、犬が自分で掃除してしまう状況を禁止するという風刺?

Amazonで日焼け止めを買った。ここ数日の暑さのせいではない、僕は暑くなることを見越して、早めに調達するつもりだった。ご存じの通り、暑さの方が先に来たのだ。あと、「サムライ」のフレグランスミストを買った。もちろんこれも、ここ数日の暑さのせいではない。暑くなる世界に備えるつもりだったのだ。「サムライ」は、アラン・ドロンが三船敏郎して作った香水らしい。へー。これで僕も一応、香水デビューということになるのだろうか。近くのドラッグストアに行って、置いてあるテスターのなかで、安くて「うっ」とならなかった奴を選んだだけなのだが。しかし、ドブに香水をかけても、ドブで香水の瓶が割れている匂いがするだけなので、あまり意味がないのではないか。消臭力も買った。単に部屋が臭いから。この時点で、1500円ぐらいだったので、2000円超えないと売らないよっていうから、鼻毛カッターを買った。訳あって、身だしなみを整えなければならず、それにレビューを見て知ったことだけど、鼻毛を抜くのは粘膜を傷つけるので良くないという。へー。トリビアと健康情報を知ることのできるブログじゃん、これじゃあ。

それで僕は、本を借りてきた。一冊は大澤真幸の『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』で、また大澤真幸かと言われそうだし、おそらく、内容のほとんどが、すでに知っていることだろう。好きな映画や音楽ばかり、繰り返し見て、聞いてしまうのに似ている。
もう一冊は、古東哲明『瞬間を生きる哲学 <今ここ>に佇む技法』という知らなかった著者の本で、冒頭を引用してみよう。

いまこの瞬間のなかにすべてがある。少なくとも、大切なものは全部でそろっている。
人生の意味も、美も生命も愛も永遠も、なんなら神さえも、
だから瞬間を生きよう、先のことを想わず、今ここのかがやきのなかにいよう。

これは、僕が読まなければならないだろう。まだ初めの方を読んだだけだが、以前に僕が絶賛した『南の思想』にも似ていて、いい感じだ。それについては、またいずれ。


けもの「コーヒータウン」MV

川の向こうの喫茶店に歩いて行って、500円使うこと。そのことを、なんにも気にしない暮らしを。

ブログ「いらけれ」

大人計画が30周年ということで、BSでスペシャル番組をやっていて眠る前に少し見ていたのだが、なかで、26歳の松尾スズキが『冗談画報』に出ている映像が紹介されていて、なんだか来るものがあった。それはもちろん、自分が27歳だからだけど。もう若くないことは知っていて、そして、もう若くなることはできないことも分かっているつもりなのに、なんでこんな暮らしを続けているのだろう。

主力メンバーのほとんどが帰ってきたのだから、すぐに勝てるようになるだろうと思っていたがスワローズは、同じことを繰り返すように負け続けていて、流石に見るのが辛くなってきた。このエラー病の蔓延は、やはり何かしらの心理的プレッシャーによるものなのだろうか。こういう時こそ最後まで追いかけるということが、人生の糧になるのだろうな。何があってもずっと見続けるという経験が、いつか大きな意味を持つ。でも、どうしてもエラーやフォアボールの満塁で、間を抜けていくボールを追いかける外野手の姿を見ると、チャンネルを回してしまうね。

貧乏だから、アプリでもらったブラックサンダー(32円)のクーポンを、ローソンまで行ってレジに出した時、いや、ローソンに向かっているときから、みっともなくてみじめな気持ちだった。食べたらおいしかった。

言葉を調べていたら、「Yahoo!辞書 サービス終了のお知らせ」って、さらっとすごいことが書いてあって驚く。2019年5月31日をもって、サービスを終了させるらしい。へー。インターネットサービスって、本当に突然終わるよなあ。終わるもんだと思って、使っていかないといけないということなんだろうな。

このところ、運が悪かったといって終わらせられないことについて考えている。とても小さな子どもが、大病を患っている。その子に向けて、「運が悪かった」とは口が裂けても言えない。でも、その子に原因があるわけでもないし、もちろん前世などというスピリチュアルな何かのせいでもないのだから、運が悪かったとしか言えない。だけど、運が悪いということで終わらせるには、あまりにも残酷すぎる現実。だからこそ、あらゆる宗教が要請されるのかもしれないが。


歩いていたら見つけた看板その①。手で書かれた「懲」という文字を初めて見たかもしれない。最初はフレンドリーだったのに。途中からテンションどうしたん?やっぱり、散歩をしていくとこういうものと出会えるからいいね、って悪いことじゃないとは思うんだけど、週に10万歩は、いくらなんでもだし、散歩ジャンキーなのではないだろうか、という気がする。

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ブログが重荷になっていて、追い立てられるように生きている。この日も僕は、朝から文章を書いていた。上手く書けなくて、時間がかかってしまった。朝ご飯は食べていたけど、もう正午を過ぎていて、これから食べることもできなさそうだと思ったから、エンゼルパイを詰め込んで、咽ながら外に出た。

歩かないで、電車を使う選択肢もあったが、その日は図書館に本を返して、新たに借りたいと思っていた。しかし、家を出た時点で結構ギリギリだったのだから、諦めればよかったのだ。結局、返却はできたものの、本を見ることはほとんどできなかった。トイレだけ借りることにしたのだが、トランクスを後ろ前に履いていて、開くところがなくて焦った。

この日は、毎月参加している「デモクラシーカフェ」があって、東村山駅に小走りで向かっていた。心配性なだけで、もちろん5分前には到着した。そこから、八国山の方へ移動する。「歩きながら考える」というテーマに合わせて、"考えることを考える"というある種メタ的な話を、移動しながら皆で語っていた。東村山市民的には、街の中ではやはり、地元についての雑談をしてしまいがちなところはあった。ただ、森の中に入ると、自然と(自然だけに?)深い話になっていった。

「考える」という言葉一つとっても、それぞれにイメージするところは違っていて、例えば、子どもに出された「なぞなぞ」に答えようとしているとき、日常生活の中においては、だいたいの人がこの行為を表すとき、"考える"という言葉を使うだろう。その他にも、簡単なおつりの計算や、昼ご飯の注文のときなんかでも、"考える"というけれど、しかし、確かに頭を働かせてはいるものの、その内実は、なんだか"考えているという感じ"とは、"ニュアンス的に違う気がする"と、思わないだろうか(考えてみてほしい)。いや、もちろん考えてるんだけどさ。

やっぱり僕は、さっき見た映画を、ワンシーンワンシーン思い出しながら批評的に分析しているときや、ある社会現象を目の当たりにして、なぜそうなっているのかと哲学的に思索しているときに、やっと"考えている"っていう気になる。それは、金になるわけでもないし、正解が見つかる類の問いでもないけれど、知識や感覚を総動員して突き詰めなければならないと、内なる声が聞こえてきてしまうから、やめられないもので、僕にとっての"考える"とは、そういうものなのかもしれないと思ったし、歩くことが"考える"ことに向いていて、考えていているときに"考える"ことができる気がするのは、隙あらばテレビやインターネットを見てしまう僕たちの暮らしが、こういう種類の"考える"から、遠くに置かれているからなのかもしれないと思った。

来月のテーマは「女らしい、男らしいってなんだろう?」だそう。すでに少し考え始めていて、思いついたこともあるけれど、それについては、またいずれ。結局、会が終わった後も残って、昨今のマナー問題について『文化系トークラジオLife』の完全な受け売りをしたり、帰り道に歩きながら喋ったりしていたら、家に着いたのは夜の7時で、歩数は2万4000を超えていましたとさ、おしまい。

ブログ「いらけれ」

少し気が楽になったという話からしようか、まあまあ落ち着いて、少しそこで、深呼吸でもすればいい。アルコールも飲んでないし、あらゆるドラッグの力も借りていない、それこそ精神安定剤すら飲んでいないのは、飲んだ方がいいのかもしれないけれどね。

考え始めると、常によく分からなくなる。猫が鼠を食べる。人間だけが肉を食ってはいけないというのは違うのかなーと、少し気が楽になった。まあ、植物を食べるだけで生きていけるのだとしたら肉は娯楽で、しらす丼に乗るしらすから見た人間のことを思ったり、ウニは生き物感ないなあと思ったり、植物には意思とかなさそうだから、草を刈るたびに申し訳ないと思っていたらおかしな人だ。

祭りの屋台で売られる亀である。掬われる金魚である。人々のアリナシはとても恣意的で、徹頭徹尾、決まりって不思議だなあと思う。「虫愛護」で検索をかけて、動物だけではなく、虫や魚を含めたすべての命を殺すべきではないという主張を、人間がいかに自然にとって害悪であるかということを絡めて、書いているブログを見つけた。ここまで行くと、ある種の極端な思想であり、イデオロギーだと思うけど、今ここの理屈が通っていないのは確かで、でも人間は、これから先も変わらず、論理的な正しさよりも、かわいさとか気持ち悪さ、あと病気の怖さとか迷惑を取るだろう。この前ベランダに蜂が巣を作っていて、追い払ったという話をここでしたけど、もしあれが、例えばあれがツバメの巣だったら、微笑ましい光景として受け止めていたはずだ(その後には、現実的な糞害などに悩まされるかもしれないが)。

これはつまり、部屋でパソコンをいじっているときに、腕に上ってきたクモを潰したことに対して、罪悪感を抱いたのか否か、という話なのだ。街は5月とは思えないほど暑い。それでも長袖を着ていったのは、まだ日焼け止めを買っていないからで、踏切を渡って、最初の角で左折しようとした車は、おばさんがそのまま真っすぐ歩くと思ったから、少しスピードを上げようとしたところで、こちらを向いたままおばさんは、急に道を横切り、驚いてブレーキをかけた運転手と、僕の目があった。僕と、運転手のおばさんだけが、おばさんに事故が起きかけていたことを知っている。一方のおばさんは、数秒前に怪我をしていたかも、もしかしたら死んでいたかもしれないということに、一つも気づいていない様子だった。僕は何か(この世の真実?)を見たと思った。

おじさんをおじさんと呼ぶように、おばさんをおばさんと呼ぶのがためらわれるのは、女性の方が、年齢で価値をはかられることの多い社会だからで、それは、はっきりと不当だと思う。

帰り道、僕があの車と同じコースを辿って、左に曲がろうとしていたとき、後ろから何かを言われた。振り返った先には、ピカピカとランプを光らせたパトカーが近づいてきて、イヤホンを外した僕は、それが詐欺電話などへの注意喚起であることを聞き取る。知らない番号からの電話に出るなというなら、もう電話じゃなくてもいいんじゃないだろうか。もう一度イヤホンをして、再生ボタンを押す。吹く風が涼しい夕暮れに、七尾旅人の歌う『虹』を聞いたとき、この世界/人生は、僕のためだけに用意されたものなのだと、明確に理解した。